3 / 51
ヘンナヤツ(3)
「...タニ、キリタニ」
名前を呼ばれているのに気づいて、俺はソファに座ったまま首だけ声のする後方に仰け反らせた。
「.......んあ?」
「んだよそれ。さっきから呼んでんのに」
男は呆れたように笑って、ほれ、と俺の額にペットボトルを乗せてきた。手に取ると、ミネラルウォーターだった。俺は黙ってそれを受け取って、テーブルに置いた。
「なあ」
「ん?」
「いい部屋だな」
「嫌味かよ」
男2人が泊まるには明らかに狭い部屋、小さすぎるシングルベッド、窓から見えるのは夜景でもなんでもない、隣のビルの壁ときた。嫌味だと捉えられても不思議じゃない。
だが俺がいい部屋だと思ったのは紛れもなく本心だった。別れた女の痕跡が一切ないこの部屋は、どこぞの高級ホテルのスイートルームに匹敵するほどの、安らげる空間だった。1つしかないソファに図々しく座ってぼうっと部屋を眺めながら、ここへ来る途中に寄ったコンビニで買ったタバコをふかした。
「ちげえよ」
男は、ふーん、とだけ言うと、ベッドに腰掛けた。男の体重を受け止めたベッドのスプリングが、ぎし、と安っぽい音を立てて軋んだ。
「そんじゃ、宿代支払ってもらおうか」
「は?」
「そういう約束だろうが」
「何のはなしだよ」
「あんたのだせぇ話だよ」
「...ああ、それか」
プシュ、と缶のタブを空ける音がした。振り向くと、男の手には缶チュウハイが握られていた。まだ飲むのか、こいつ。
「女にフラれただせぇ男のはなしだから、それ、マズくなるかもな」
「んなこととっくに折り込み済み」
スーツのジャケットを脱いだせいなのか、緩められたネクタイのせいなのか、男の醸し出す雰囲気が幾分柔らかく感じて、少しいたたまれなくなった。
「あんたのだせぇ話を肴に飲んでやるつもりで買った酒だからな」
「あくしゅみ」
「それはどうも」
「ほめてねーよ」
多分、この男には二度と会うことは無いだろう。自分の格好の悪い身の上話を話す相手としては丁度いい。話して、すっきりして、そして後腐れなく、明日の朝この部屋を出るのだ。だから今日、この一夜限りだけ、後悔に塗れた寂しがりな男でいても、神様は罰なんて下さずにいてくれるはずだ。
ともだちにシェアしよう!