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スーツと服(3)
焼肉の約束をしたのは、次の土曜の夜だった。俺は香月から借りた服を紙袋に提げて、自宅マンションの前に立っていた。
香月は土曜出勤だったらしく、仕事終わりに俺の自宅まで直接迎えに行くから待っていろと連絡があったのだ。
てっきり土曜は休みだと思っていたので、迎えに来てもらうのは想定外の展開だった。断ろうにも妥当な理由が見つからず、こうしてお願いする羽目になったわけだ。
約束の時間通りに、香月の車は現れた。
「桐谷おつかれー」
車の窓を開けて、香月は身を乗り出しながら言った。
香月の姿を目の前にした瞬間、物凄く胸が熱くなった。心底戸惑った。
「ああ....おつかれ、香月」
先週だって普通に過ごせたじゃないか。
そう言い聞かせて一つ大きく息を吸い込み、車に乗り込んだ。
車内では、この間とは違うCDが流れていたのが、少しばかり救いだった。
「これ借りてた服」
「おう。俺もスーツ持ってきた。帰りでいいだろ?」
「ああ。ありがとな」
香月に促されて後部座席を見ると、そこには俺のスーツを入れた袋が置いてあった。その隣に、香月の服の入った紙袋を置いた。
香月は、いつもと変わらなかった。
根塚と四十万はどうだったかと揶揄うように聞かれた。散々可愛がられたよと不貞腐れてやると、香月はケラケラと笑った。
「ほらな?よかったじゃねーか」
「よくねーよ」
そう、よくなんかない。
お前のことについては何一つ話を聞けなかったのだから。当たり前だが、本人ももちろん自分から語ることは無かった。
俺は根塚から言われたことの意味を考えていた。
『彼は本当に優しい子だ。大事にしなさい』
香月が優しいのは十分知っている。
根塚はあの日香月のどんな優しさを目にしたというのだろう。考えたところで記憶が無いのだからどうしようもない。
「ん?降りねえの?」
香月に声をかけられて気が付けば、目の前にはお目当ての焼肉屋があった。
「ビール2つで」
「あ、待って今のなし。ビール1つと烏龍茶で」
烏、龍、茶。
聞き間違えかと思って頭の中でもう一度復唱してみたが、やはり烏龍茶だった。
俺は店員が去ったあと香月にたずねた。
「飲まねえの?」
ドライバーだからだろうか。...いや、香月は代行を呼んででも酒は飲む。
香月は大きく肩を落とした。
「明後日、健康診断あんだよ。すっかり忘れててさ」
なるほど、休肝日というやつか。
俺だけ飲むのも申し訳なかったが、気にせず飲んでくれと香月は俺に酒を進めた。焼肉を目の前に終始ソフトドリンクで済ますなんて生殺しもいいところだ。
「言ってくれれば焼肉じゃなくてもよかったのに」
「俺はな、今日お前と焼肉が食いたかったんだよ」
お前と、の部分だけが、妙に心に残響した。同時にフツフツと感情が湧き上がってくる。
なんだろう、と思索すると、案外すぐに思い当たった。
嬉しい。
これが1番、相応しかった。
自覚した瞬間、何も言えなくった。
黙っていると、香月は、顎ひじをついて満足気な笑みをこちらに向けてきた。
眼鏡の奥の瞳が俺を見ていた。
優しいようで、鋭い目をしていた。
「.....ふーん」
居心地が悪くなり、苦し紛れにそれだけ言って俺は目をそらした。ちょうど店員がタイミングよくドリンクを持ってきてくれて、俺は心からの感謝の念を込めて「ありがとう」と言いビールを受け取った。
「ん」
香月が烏龍茶の入ったジョッキを差し出して乾杯を促してきた。
この店はどうやらソフトドリンクにはストローを付けて提供するらしい。ジョッキ越しにの香月を見据えて、この男にストローなんて似合わないなと思うと思わず口元が緩んでしまった。
「何笑ってんだよ」
「いや。....ストロー、似合わねえなって思って」
「それは俺も思ってる」
くく、と香月が笑ったのにつられて、俺も笑った。
「ストローに乾杯」
笑いを堪えきれず、少しだけ声が震えた。
「お前その音頭はセンスねーわ」
そう言いながらも、香月は俺の差し出したビールにジョッキを当てた。
正直、気にかかることもある。
居た堪れない瞬間だってある。
それでも、こうして自然と笑える瞬間だってある。
時には、危なっかしいほどに甘く。
時には、清々しいほどに爽やかで。
それに俺は振り回され、掻き乱される。
それも嫌いではないのだと、心のどこかで気付いていた。
俺は、こうして香月と過ごす時間が、すごく好きだ。
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