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スーツと服(5)

少し進んだ海岸沿いに、小さな駐車スペースがあった。他に車はいない。香月はそこに車を入れると、停車させた。 そこが香月のお気に入りだという意味がよく分かった。 海を一望できる、とてもいい場所だったからだ。だが、今俺にはその海が綺麗だと思える気持ちの余裕は、正直なかった。 「はあー、やっと来れたわ」 香月が大きく伸びをした。俺は固唾を呑んで、香月の言動に耳を傾けていた。 「...桐谷と一緒に見たいなーって、この間からずっと思ってた」 なんで、俺と? この間って、いつ? 聞きたかったが、聞けなかった。 胸がざわついた。 心拍数が上がっていく。 変な汗が出る。 香月の方を見れない。 俺はひたすら目の前の海を見ていた。 車内は静まり返っていて、空気の動き一つですら、今なら敏感に感じ取れそうだった。 それくらい神経が張り詰めていた。 「優」 名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がった。 香月の手が俺の顎先に触れて、そっと自分の方へ向かせた。 まるで、あの夜の記憶をなぞるようだった。 香月の真っ直ぐな眼差しが俺を捉えた。 唇が近づいてくる。 今まで、何度もキスをしてきたその唇が触れる直前、俺は初めて香月の肩を押し返して拒絶した。 「香月、ちょっと、待....」 「....やっぱりお前、覚えてんだな」 「っ....」 もう言い逃れはできなかった。 香月は、俺を試した。 最初から分かっていたのだ。 俺はコクリと頷くと、香月は肩の荷が降りたかのように一つ長く息をついて、シートに背中を預けた。 「そっか...よかった。あーいや、よくねーか?どっちだろうなぁ」 香月は困ったように笑って、頭をかいた。 「全部、覚えてんのか」 首肯した。 「そうか。電話も?」 それは、覚えていない。 むしろ今、俺が1番知りたいことだ。 首を横に振って、否定する。 「根塚さんと四十万くん、何か言ってた?」 否定する。 「ほんと...いい人たちだな」 香月が握ったハンドルに額を押し付けながら、呟くように言った。 「...あ、いや...」 「ん?」 「根塚さんが...」 「うん」 相槌する香月の声は優しい。俺は左胸をやんわり抑えながら、ゆっくり話した。 「いい友達を、持ったね、と」 「...はは、いい友達か」 「それと.......」 「うん」 うるさい。 心臓がうるさい。 もうこの一時で俺の生涯分の鼓動を刻んでしまうのではないかと心配してしまうくらいに。 「お前のこと、優しい子だ、って。大事に...しなさい...って」 香月は何も言わずに深呼吸した。 左胸が痛い。遂に破裂したのかと思ったがそうではなかった。俺の手のせいだ。指先が白くなるくらい、強く掴んでいたのだ。 「なあ、香月」 俺は、聞かなくちゃならない。 知っておかなければならない。 「俺....お前に、なんて言ったの...」 声が震えていた。香月がこちらを向いたのがわかったが、目は合わせられなかった。 「...しょーもない話だよ」 それは、聞いたよ。 俺は首を振った。 それはきっとお前が、俺を守るために言ってくれたんだろ。 自分でしでかしたことで、俺自身の心が潰れてしまわないように。 「....あの日、お前から電話が来て」 長い沈黙を破ったのは、香月だった。 俺は久しぶりに香月の方をしっかり見て、耳をそば立てた。

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