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スーツと服(8)
触れるのみのキスだった。それがとても幸せで、次から次へと好きという感情が胸の中で広がっていった。
唇が離れると、涙は止まっていた。香月が俺の涙の跡を、指先でなぞった。
「はは、止まったな」
「...止まってねえよ」
きょとんとしている香月の肩に腕を回して抱き着き、その首筋に顔を埋める。
「....好きだ、一織」
涙は止まった。けれど、一織が好きだというこの気持ちは、きっとこの先もずっと、止まらないだろうなと思う。
「俺も...好きだよ優」
耳のそばで囁かれる夢みたいな言葉に、ため息が出た。
香月の手が背中に回されて、強く抱きしめてくれた。その体温に甘えて、俺も強くしがみつく。
何度もこの腕に抱かれてきたけれど、今までで一番、一織を近く感じて嬉しかった。
首筋から香る一織の香りはやっぱり甘くて、優しい香りがする。すん、と香りをかげば、身体の中に染み込み、満たされていく。俺は静かに目を瞑って、その幸福感を噛み締めた。
「...優、悪いけど、スーツ...返したくねぇんだわ」
一織の香りにぼうっと浸っていると、突然そんな事を言い出した。
「...なんで?」
「俺ん家に置いておいて。お前が仕事行けるように」
一織の言葉の意味を理解した途端、再び涙腺が緩んだ。
「そんで代わりに俺の服、持っておいて。いつでもお前ん家に行けるから」
そんなの...恋人みたいじゃんか。
たまらず俺は黙ったまま大きく頷いて、強く強くしがみついた。
殺風景だった俺の部屋。
そこへ帰るのが、嫌だった日々。
都のことは、忘れた訳では無い。
都といた5年の月日は、忘れたくても消えてはくれない。俺の人生の一部だ。
5年間もの間、幸せな日々を与えてくれたのは都だ。都には、感謝している。
俺は都の幸せを願って、別れを受け入れた。
都だって、俺が幸せであることを願ってくれているはずだ。
だから俺はもう、迷うことはしない。
俺が恋をしたのは、一織だ。
俺はこれから一織と二人で、新しい日々を作り上げていくのだ。
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