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第2話:善意は真綿の様なもの
住良木さんは庭まである家に一人で暮らしていた。
お手伝いさんまでいるこの家は、一人にしてはかなり広く、二人になっても大分広い。
職業は聞いてもよく分からなかったけれど本棚が沢山ある部屋が二部屋もある上に、住良木さんは俺以外の人間から『先生』という敬称で呼ばれているので凄い人であることは間違いない。そして日中は割と仕事に行っている様子なので、自然と人が尋ねて来るのは家に居る日、つまり休日なのだろう。それなのにも関わらず平然と対応するのだから相当な働き物だ。
その姿には思わず拝み倒したくなる。
住良木さんのお陰で住良木家の将来は安泰です。どうもありがとうございます。
その優秀な遺伝子が何故俺に行き渡らせてくれなかったのだろうか。なんて。
余談だが、お客さんが家に来た時は住良木さんから与えられた自室に籠る事にしている。人から気付かれてはいけない、借りぐらしの気持ちだ。
ただでさえ顔が良くて人に好かれそうな住良木さんは何故か婚期が遅れているのに、嫁を通り越して男の子供を家に寄せているなんて、かなり字面が酷いことになっているのだ。
そんなことを知った住良木さんを慕っている人達の顎はきっと外れてしまうことだろう。
しかもそんな子供を一人の人間として性的な目で見ており、溺愛しているとなれば神も仏もあったもんじゃない。夢や憧れがガラガラと音立てて崩れ去ってしまうだろう。
だから住良木さんの為にも、住良木さんに幻想を抱く人々の為にも俺の存在はなるだけバレない方がいいのだ。
そしてみんな先生呼びなのに敬称を付けずに親しげに呼ぶ俺は普通に嫉妬の対象になりかねない。というか失礼だと怒られることであろう。
ということで一度先生呼びをしたのだが直ぐにいつもと同じ様にして欲しいと言われたどころか「同じ住良木なのだから、呼び方を変えるなら敦祢と呼んで欲しいものだよ」と言われ手しまったので「分かりました、住良木さん」と牽制した。
住良木歴としては明らかに住良木さんの方が先輩なのだから当然だ。というか俺まで名前で呼んでしまったらいよいよ事案だ。衆道が加速してしまう。
それをちゃんとブレーキをかけなければ俺が消えるのだからそんな顔をされても無駄である。
否、ブレーキと言うよりはトロッコの切り替えレバーの方が合っているだろうか。
トロッコが衆道というこの先の崖しかない道を進もうとするものだから、レバーを引いて軌道修正するのが俺の役割。うん。こちらの方がしっくり来るが、切り替えポイントが多すぎて設計上のミスを嘆かざるを得ない。
果たしてトロッコを切り替える度にどれほどの好意を轢き殺しているのかは考えないことにした。これが一番いいのだから。
「今日は何をして過ごしたのかな」
夕食時の会話の切り出しはいつもこの一言から始まる。
思えば、この家に来て最初の頃。 住良木さんは俺に対してまるで拾って来た野良猫が心配で仕事に行けないみたいな心境を抱いていたのだろう。俺は愛くるしい小動物では無いのだが、兎に角不安だったらしい。
一人で不安ではないか、心配事はないか、寂しくしていないか、暇ではないか、等を聞きたがった。
そうして今日何をしたのかを夕食時に聞いて来ていたのだが、その時の俺はそりゃあ不審者が家に居るんだから変なことしてないか気になるよな。と全く真意を理解していなかったので、特に怪しいことは何もしていないという意味で『特に何もしてません』と言っていた。
端的に言って頭が悪い。
普通に考えて当人に『怪しいことをしましたか?』とは聞かないし、素直に『しました』とは言わない。
それに気付くまで暫くかかった俺はどれほど馬鹿なのだろうか。
しかし弁解をさせてもらいたいのだが、今日何をしたか人に話すなんて保育園以来だから何を話せばいいのか分からなかったのだ。許して欲しい。
「今日は、庭の草むしりをして遊んでいましたね」
「そうだったのかい? 通りで庭が綺麗なはずだ、ありがとう。
それで、草むしりは楽しめたのかな?」
「……まあ、はい」
普通に遊びじゃないことを突っ込んで欲しかったけど、実際楽しかったので素直に頷くしか出来ない。
それをにこやかに見守られるものだから本当に困る。彼は根本的にボケ殺しなのだ。
「ああ。でも愛くるしい鼻の頭が日に焼かれてしまっているね。次の休みにつばの大きな帽子を買おうか」
「そんなの悪いです」
「そうか、他でもない君が言うなら仕方ない。君の鼻の頭の火傷が治るまで僕が薬を塗り込んであげよう」
「帽子の方でお願いします」
「そう? それは残念」
全く残念そうではないその顔のなんと小憎たらしいことか。
ああ、また貢がせてしまう。
これでもし俺のせいで住良木家の財政が傾いたら俺が困るのだから貢がれたくないのだけれど。
本当に俺の悩みが怪文書みたいになるのいい加減にして貰いたい。
俺のせいで俺が危ういなんて高度な悩みを抱えたくはなかった。
「他には何をしたのかな?」
「えっと……特には……」
本当に特に何もしていないので素直に答えると、細かいことでもいいからと促される。
手口がミステリードラマとかの証言集めみたいだ。別にそんなことを言われても怪しい人影は見ていないから期待されても困るのだが。
けれど、お昼に食べたものや、泥団子を作った事など会話も膨らまないどうでもいい日常を取り留めなく話すと、どうしてか住良木さんは楽しそうに聞いてくれる。
適度に返される相槌は上手なものだから、今日もついついたくさん話してしまった。
住良木さんは食べ終わっているのに俺はまだ殆ど食べ終わっていないので、お喋りをやめて食べるのに集中する。
「ゆっくり食べるといいよ」
そのお言葉に甘えたいところですが、そのようにガン見されては非常に食べにくいので急がせて貰います。
なんというか常々思っているのだが、モテるだろうなこの人。
そもそもどうしてこの年になるまで結婚せずに居られたのか不思議で仕方がない。
それこそ引く手数多だろうし……誰かを好きにならないような人にも見えない。
実際俺の事を好きだとは言うけれど、本当に顔が好みなだけだろう。そもそも時系列が逆なのだ。
住良木さんが俺に似た顔をした人を好きになって結婚するから、巡り巡ってその人に似た顔の俺が生まれる訳なのだから。
そうして考えてみれば俺の顔面に好意を持つのは当然なことのような気がしてきた。いつか現れる俺の顔に似た誰かが来るまで衆道に走らないように頑張ろう。
「ご馳走様でした」
「はい、ご馳走様でした」
ここに来てから、そう言えば手を合わせて食べる時も挨拶をしていたことを思い出した。
高校に入って給食が無くなってからは一人でサッと食べられるようなものばかり食べていたから、いつしか口に出して挨拶するのを忘れて。手を合わせるのも忘れてしまっていた。
だから、住良木さんとの一時は家族ってこういうものなんだと思わせられて。なんともむず痒い気持ちになる。
実際、住良木さんの溺愛も、祖父母のようなものだと思えば心地が良い。傍目からすれば、そこに性愛が含んでいるとは誰も気付かないだろう。
部屋を移動して、食後のお茶を飲みながらお勉強をする。
日本語なんだから分かると高を括っていたけれど、文字が読めなかった。達筆過ぎ、というか殆どスマホの文字としか向き合って居なかったので手書きかつ特殊な書き言葉がさっぱり分からなかったのだ。
そんな俺のために住良木さんが懇切丁寧に教えてくれる会。
難点を上げるとすれば距離感が近すぎる。
昨日もこの時間に手の甲にキスをされたな、と思いながら渡された紙の束を捲ると何処にも文字が見当たらない。あれ。
「これ白紙じゃないですか」
「そう。寧哉くん、日記を書いてみない?」
「日記……?」
曰く、読むだけではなく実際に書いてみる事も必要だとか。
ゆくゆくは何かしらの本を模写をするけれど、その前に自分の言葉の方が書きやすいだろうから見よう見まねで書いてみるといい。ということらしい。
「決して君が僕の知らないところで愛くるしく過ごしている様子を記録として読みたいからではないけれど、添削はさせて貰うし、どうかそれを気にせずに好きに書いて貰いたいんだ」
下心と言い訳が交ざって結果素直に暴露していることになっているのだが、何も言わないでおく。
「……そういうことにしておきます。でも、どうせ添削するなら交換日記の方が」
その方が住良木さんのお手本が読めるし、俺の日記を一方的に読まれる恥ずかしさとかも緩和されるのだけれど。
「それは……僕の日記がとても邪魔になるだろうね」
複雑な顔をしながら苦々しい声を出す住良木さんに、それはどういう意味でですか、とは聞けなかった。
そうして日記を初めて少し歳月が経過した。
結果から言って、俺の日記帳は日記ではなくなっている。
いつからこんなことになったのだろうかと遡れば丁度三日目の日付だったので、三日坊主にすらなれていない。
日記を付けたことが無いから初めて知ったことがあるのだが、俺は日記を書くのが苦手なようだ。
三日目の日記から、壮大な物語が始まった。厳密に言うと、伝説の池から聖刀を広い上げた。
そうして始まってしまった聖池伝説。日記を書く約束なのに早々にファンタジーな世界に旅立ったので流石にこれは住良木さんも呆れると思ったのだが、住良木さんは「面白いね」と言ってくれた。
そんなこと言われてしまったらもうダメだ。初めて創作物語を褒められてしまったのだから。
その言葉は甘く俺の体の中を巡回して、調子に乗ってもっと書いてしまう。
恐ろしい人だ。
住良木さんと居ると自己肯定感やバチくそに上がってしまうし、承認欲求が満たされてしまう。
ああ、この人本当に俺のことが好きなんだな。と実感してしまう。
本当にやめて貰いたい。衆道に走られては俺の存在が危ういんだから。
そうして調子に乗って日記帳からすっかり物語帳に変わってしまい、ノートのようなもののナンバリングはどんどん増えて行った。
2冊目のあたりから住良木さんはただ面白いと言うだけでは無く、俺が時折書いてしまう現代的な言葉を「ここが少し僕には難しいかな」とやんわり指摘してくれたし、編集じみたことを言ってくれるようになった。
本物の編集を知らないからどうかは分からないけれど。きっと住良木さんは甘々編集者だろうな。
なんて、拙いながらも楽しく書いていたある日。来訪者があった。
呼び鈴の音に自室に戻ろうとする俺を住良木さんがにこやかに引き止めるものだから困惑しながらも住良木さんの隣に立っていると、編集社を名乗る来訪者は見覚えのあるノートを取り出して口を開いた。
「これを書いたのは君かい?」と。
目眩がした。
どうしてそれが知らない人の手にあるのか、どうして勝手に読ませたのか。今すぐに住良木さんを問い詰めてやりたい。
羞恥心と怒りで混乱しながらも恐る恐る肯定すれば、来訪者は声を弾ませて住良木さんと色々話して帰っていった。
出版、とか。本にする、とか。言っていたような気がするけれど冗談だろう。期待も自惚れも良くない。
そして何よりも俺の頭の中は羞恥心と怒りで溢れているのだ。他のことなんて、考える余裕はない。
「……なんで、勝手に人に見せたんですか」
「寧哉くん?」
住良木さんは俺が怒っていることに気付いて驚いたような顔をした。
どうして怒っているのか分からないのか。そりゃあそうだろう。
この人は俺の本当に嫌がることは避けてきた。これも善意なのだ。
ギリッと奥歯が鳴ると、怒りをぶつけられているのにも関わらず心配するような表情をするものだから、もっと腹が立った。
「なんで見せたんですか」
「すまない、君がそんなに怒るとは思わず」
「謝って欲しくありません」
「とても、良く書けていたから」
良かれと思って。
知ってる。
住良木さんがそう言う人だなんてこと、知っているのに。住良木さんは俺のことを何も分かっちゃいない。
「……読まれたくなかったです」
俺は頭が悪いから、ちゃんとした物語のなんて書けるわけがない。
そりゃあ住良木さんは俺のことが好きだから、書いたものも好きだと言うだろう。それは本当に話が面白いからじゃないってことくらいわかっている。
ああ、くそ調子に乗ってしまった。調子に乗った俺が悪い。
書いても怒られなかったから。
住良木さんなら、読まれてもいい。住良木さんなら、面白いと言ってくれる。
住良木さんなら、傷つけることはしてこない。
ああ馬鹿馬鹿しい。善意が全てわたあめのような優しい砂糖菓子出できているとでも思っていたのだろうか。世の中の最もタチの悪い悪行とは全て善意によるものなのだと忘れていたのだろうか。
住良木さんの心地いい好意の上に胡座をかいて調子に乗るからこんなことになるんだ。
落ち着け。
住良木さんは悪くない。この怒りは俺の個人的な問題だ。
すぅ、と息を吸う。大丈夫、大丈夫。今までもそうやって来れたんだから、大丈夫だ。
「いいですか、住良木さん。普通の人間は日記や創作物を見られるのはかなり羞恥を感じるものです。
それを許可なく知らない人に見せるだなんてこと、嫌がって当たり前なんですから」
「寧哉くん、頼むからどうか怒ってくれ」
「おかしなことを言っている自覚はありますか?」
「おかしいのは君だよ」
は?とそれだけの言葉が口から出なかった。
頭一つ分背の高い住良木さんから抱き込まれてしまったのだから。
「泣くほど嫌だったのだろう? 震えるほど怒っているのだろう? なのにどうして、無理に笑ってしまうんだ」
泣いている?俺が?そんなわけない。怒りで震える、なんて比喩だろう。実際に震えることなんてありはしないんだ。
「どうか、どうか。僕には心を閉ざさないでおくれ、言っても無駄だと諦めないでおくれ」
「、んなこと、言われても、困る」
そうだ。すごく困るんだ。
そんな事言わないで欲しい。抱き締めないで欲しい。
「どうして?」
どうしてって、そんなの。
受け入れられた気持ちになってしまう。
「どうしようもなく、グズでノロマで要領が悪くて頭の悪い俺が。素敵な物語なんて書けるわけないでしょう……」
先生から作文を張り出されたことがある。俺が趣味で書いたどうしようも無い創作物。
こんなものを書いているから成績が伸びないんだ、と。そいつは御尤も。勉強せずに書いたのだから当たり前だ。
けれど、物語ってものは作者の頭の出来に直結するらしいから。
そのくだらなくて稚拙な物語は、クラスメイトから大笑いされた。
両親すら匙を投げた住良木さんちの落ちこぼれにわざわざ教育を施そうとした。
先生様の、善意による教育だ。
ああ、先生様。あの時ちゃんと懲りて2度と創作なんかしなければこんなことにはなりませんでした。
住良木さんになら、なんて傲慢な考えを抱きませんでした。
飛んだ大馬鹿者ですよ。俺と言うやつは。
「寧哉くん……今日のことは許して貰わなくても構わない、一生謝罪し続けよう」
「そんなのいいです」
「けれど僕が好きなものを貶すのはどうかやめておくれ」
「無理ですよ」
「狂おしいほど愛している君のことが嫌いになってしまう」
「嫌いになればいいじゃないですか。離してください」
呆気なく解放されて、後ろに少し後退る。
嫌いになってくれれば困り事は綺麗さっぱり無くなってくれるので万々歳だ、
住良木さんが俺のことが好きだから困っているのだから。
「嫌われていいのかい? 本当に? 泣くほど、僕のことが好きなのに?」
「何言っ……!」
頭を上げて睨みつけた瞬間、再び捉えられてしまい言葉を塞がれた。
今度は体ではなく、唇で。
「はぁ!? ふざけっ……なんっ」
やんわり触れたそれはすぐに離れたので、単純に怒って抗議しようとしたのが悪手だったと気付いたのは口の中に舌が入ってきた時だった。
ああああああ。
キスなんてした事ないのに。本当に口の中に舌って入れられるのか、知らなかった。息って、鼻でするんだよな、鼻呼吸ってどうするんだっけ。俺普段鼻で呼吸できてたっけ。
いや、違う!
俺が今すべきは拒絶であって鼻呼吸じゃない。
「……ん、ぷはっ、」
叩くか、舌を噛むか悩んでいたら唇が離された。
今度はすぐに逃げようと後退ったところで、いつの間にか支えられていた腰から手が離れて。
ぐらり、と傾く。
あれ?俺の足っていつの間に自分の言うことを聞かなくなってしまったんだろうか。
「おっと。危ない」
どういうことが足に力が入らなくて、そのまま重力に従って地面に座り込みそうになった俺を住良木さんが片手で受け止めてくれた。
そこで、ようやく理解した。
どうやら腰が抜けたらしい。
「ざっ、けんなぁ……」
「……さては君、相当僕のことが好きだな?」
ずずっ、と鼻水を啜った。
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