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第36話
「久しぶりやね」
彼女は言った。
彼は凍りついた。
大人ぴて、少し変わってはいたけれど。
その声を忘れるはずがなかった。
彼女は彼の仕事先の入り口の前に立っていた。
タバコのすいがらが足許に何本も転がっていて、彼女が待っていたことをしめしていた。
だから探していたのだとわかった。
高校から町を出た。
大学の進学先も、今住む住所も、誰にも教えていなかった。
兄とは町の外で会うことはあるけれど。
兄は何かがあったことを察しても、無理に聞いてはこなかった。
父親は大人しく口座に学費を送金してくれた。
口止め料だ。
いずれ返すもつもりだが。
それでも。
母にはたまには電話をしていた。
顔を合わせるのはつらかった。
自分もまた母を騙している点では共犯者なのだ。
母は自分を騙している男と暮らし、自分を騙している女と友達付き合いをして、自分の夫と友人の間に生まれた子供を可愛がっているのだ。
幸せそうに。
母のためだ、としたり顔で黙る二人には吐き気がしたが、言えるわけがなかった。
苦しむのは確かだから。
だから逃げた。
罪のない二人から。
母と。
彼女から。
だけどわかっていた。
彼女が自分を憎むことは。
自分だけ逃げた。
彼女を傷つけて彼女をおいて逃げ出した。
居場所を誰にも教えなかったのは、卑怯にも彼女から逃げるためだったと、とっくの昔に自覚していた。
だから。
彼女が現れたことに驚かなかなかった。
自分の顔から表情は消えただろう。
つま先からふるえているのかもしれない。
彼女は変わり果てていた。
濃い化粧。
夏前なのに肌を露わにしていた。
噂は聞いていた。
兄や、母から。
彼女が誰彼無しに関係を持ち、とうとう町を出て行ったのだと。
彼女を良く言う人はもう、町にはいなかった。
今もそうなのだろう、荒れた生活が見えた。
白い肌に刻まれたタトゥーはシールや絵ではない消せないものだとすぐにわかった。
左手に刻まれたリストカットの跡さえ、そのタトゥーはジョークのように使っていた。
彼女は身体の全てを使って、文字通り、その身体の全てで破滅に向かっていた。
いや、全力で抗っていたのだ。
何に?
彼女を傷つけた全てに。
彼女から奪った全てに。
ギラギラした目。
痩せた顔。
それでも、彼女は生き延びていた。
自分を切り刻みながら。
でも。
でも
変わり果てた姿の痛々しさよりも。
恐怖と同じ位。
彼は彼女を愛しいと思った。
そのことが一番・・・、恐ろしかった。
「愛している」
彼女は口だけで笑いながら言った。
その目は笑っていない
彼は怯えて、後ずさりながらそれでも彼女から目が離せなかった。
その言葉はそれでも甘く響いて。
胸がうずいて苦しい
「オレは・・・オレは違う!!」
その声は悲鳴のようだっただろう。
そんな嘘を彼女が気にとめるハズがない。
彼女は冷たく聞き流す。
「会いたかったんよ」
彼女の歪んだ微笑みが怖い。
彼女は彼の本心だけを見ている。
彼女にはわかる。
彼女だけはわかる。
彼の本当の気持ちが。
近づいてくる彼女からにげられなかった。
震えながら、それでも彼女が伸ばしてくる指を待った。
彼女が頬に触れて、目を覗き込んだ時、深い穴に落ちていくような恐怖を感じた。
目眩。
落ちてしまいたいという想い。
なんてことだろう。
どんなに逃げても。
愛していた。
今もなお。
「愛してる」
彼女の言葉は、彼の言葉でもあった。
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