37 / 51

第36話

 「久しぶりやね」  彼女は言った。    彼は凍りついた。  大人ぴて、少し変わってはいたけれど。  その声を忘れるはずがなかった。  彼女は彼の仕事先の入り口の前に立っていた。  タバコのすいがらが足許に何本も転がっていて、彼女が待っていたことをしめしていた。  だから探していたのだとわかった。  高校から町を出た。  大学の進学先も、今住む住所も、誰にも教えていなかった。  兄とは町の外で会うことはあるけれど。  兄は何かがあったことを察しても、無理に聞いてはこなかった。  父親は大人しく口座に学費を送金してくれた。   口止め料だ。  いずれ返すもつもりだが。   それでも。  母にはたまには電話をしていた。  顔を合わせるのはつらかった。  自分もまた母を騙している点では共犯者なのだ。  母は自分を騙している男と暮らし、自分を騙している女と友達付き合いをして、自分の夫と友人の間に生まれた子供を可愛がっているのだ。  幸せそうに。  母のためだ、としたり顔で黙る二人には吐き気がしたが、言えるわけがなかった。  苦しむのは確かだから。  だから逃げた。  罪のない二人から。    母と。  彼女から。    だけどわかっていた。  彼女が自分を憎むことは。    自分だけ逃げた。  彼女を傷つけて彼女をおいて逃げ出した。  居場所を誰にも教えなかったのは、卑怯にも彼女から逃げるためだったと、とっくの昔に自覚していた。  だから。  彼女が現れたことに驚かなかなかった。    自分の顔から表情は消えただろう。  つま先からふるえているのかもしれない。  彼女は変わり果てていた。  濃い化粧。  夏前なのに肌を露わにしていた。  噂は聞いていた。      兄や、母から。  彼女が誰彼無しに関係を持ち、とうとう町を出て行ったのだと。  彼女を良く言う人はもう、町にはいなかった。  今もそうなのだろう、荒れた生活が見えた。  白い肌に刻まれたタトゥーはシールや絵ではない消せないものだとすぐにわかった。  左手に刻まれたリストカットの跡さえ、そのタトゥーはジョークのように使っていた。       彼女は身体の全てを使って、文字通り、その身体の全てで破滅に向かっていた。  いや、全力で抗っていたのだ。  何に?    彼女を傷つけた全てに。  彼女から奪った全てに。    ギラギラした目。  痩せた顔。  それでも、彼女は生き延びていた。  自分を切り刻みながら。  でも。  でも    変わり果てた姿の痛々しさよりも。  恐怖と同じ位。  彼は彼女を愛しいと思った。   そのことが一番・・・、恐ろしかった。  「愛している」  彼女は口だけで笑いながら言った。  その目は笑っていない  彼は怯えて、後ずさりながらそれでも彼女から目が離せなかった。  その言葉はそれでも甘く響いて。  胸がうずいて苦しい    「オレは・・・オレは違う!!」    その声は悲鳴のようだっただろう。  そんな嘘を彼女が気にとめるハズがない。  彼女は冷たく聞き流す。  「会いたかったんよ」  彼女の歪んだ微笑みが怖い。  彼女は彼の本心だけを見ている。  彼女にはわかる。   彼女だけはわかる。  彼の本当の気持ちが。  近づいてくる彼女からにげられなかった。   震えながら、それでも彼女が伸ばしてくる指を待った。  彼女が頬に触れて、目を覗き込んだ時、深い穴に落ちていくような恐怖を感じた。  目眩。  落ちてしまいたいという想い。  なんてことだろう。  どんなに逃げても。  愛していた。  今もなお。  「愛してる」  彼女の言葉は、彼の言葉でもあった。                

ともだちにシェアしよう!