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8 護ったもの 散らしたもの

そよそよと風が吹き渡る。瞼をつぶっていても透過する様に、白っぽい光が溢れる。 全身が柔らかでふわっと温かい何かに包まれ、そして力強い腕に抱かれている感覚があった。 まつ毛を瞬かせてから目を開くと目の前には暖かそうな胸があった。 「……」 ラグ、と呼んだはずなのに全く声が出ない。 すぐに身体のあちこちから痛みが伝わり顔をしかめて涙ぐむと、目元に優しく唇が寄せられ涙は吸われ消えてなくなる。 「ソフィアリ…… 良かった」 森の木々のように深い緑色の瞳が心配げに覗き込んできた。 ソフィアリは声が出なくて、勝ち気な眉を下げて困った顔をすると、ラグが顔中にキスを降らせて最後に唇に優しく触れていった。 「……!!?」 ラグが普段よりもさらに優しく甘く自然にソフィアリに触れてくる。信じられないような心地で呆然としていると、ラグの方もソフィアリの様子がおかしいことに気がついた。 「ソフィアリ、覚えていないなら無理に思い出さなくてもいい……」 そう言われて逆に暗闇の中の記憶が切れ切れに蘇ってきた。声が出たならば悲鳴をあげたかもしれない。   ラグの太く逞しい腕がソフィアリの身体を、柔らかな薄黄色の布ごと更に強く抱き込んだ。 「ソフィアリ、落ち着いて。大丈夫だ。もう怖いことは起こらない。俺が起こらせない」 ポロポロと涙をこぼす瞳が雄弁に語る、恐怖や不安を取り除くよう、ラグは愛を込めて口づけを贈り続けた。 あの時ソフィアリの香りに誘われラグが辿り着いた場所はキドゥの街で一番の宿だった。 といってもそこは田舎街の宿で、大した大きさではないし、なんとなく安っぽい。 しかし中央からの数少ない客を相手にするような宿はここしかなく、経営には領主の一族がかかわっていた。 正面をきって宿にやってきたラグは、静止する宿の従業員を片手でバッタバタと退けると、そのままどんどん宿の奥まで入っていった。 裏口に出ると中庭があり、そこにもソフィアリの匂いが目に見えぬ道筋となっている。 今は獣人の血が前面に出たためラグにも感じとれる、僅かな他のオメガとみられる甘いフェロモンの匂いが漂っていた。しかしその他の色々な臭いが混ざり合いすぐに消える。 意識をソフィアリだけに集中し直す。 目の前に本館よりは小さな黒っぽい別棟があった。一見普通の家屋のようだがそちらから香りが強くなる。 扉は施錠されていたが強く握って引っ張ると、簡単に空いた。 開けた瞬間。ここにソフィアリがいると確信する。普段から密やかに香っていたソフィアリの気品があり瑞々しく、だがあとをひくような香りがラグを自分はここだと導いている。 細い廊下には扉がいくつか並び、地下へと続く階段があった。 「おい! お前! 勝手に入るな」 後ろから何人かの男たちが駆けつけてきた。 小さな支配人風の男の後ろには大柄な用心棒風の男が四人。 「俺は俺の番を迎えに来ただけだが?」 その言葉に男たちの顔色が変わった。 「な、なんのことでしょうか?」 支配人風の男が顔色をなくしている後ろから、唐突に刃物を持った男が飛びかかってくる。 煌めく刃物の一撃を上から素手で叩き落として、そのまま男の顎めがけてかがんだ勢いのある頭突きをみまった。 ゴリッと嫌な音を立てて顎が砕けた男は血反吐を吐き、その場に仰向けに倒れ動かなくなった。 小さな支配人風の男はそれを見て腰を抜かしながらドアの向こうに転がり出ていく。 残り3人のうち、顎を砕かれた男を見た一人は同じように逃げていったが、二人は同時に飛びかかってきた。 その一人を階段の方へ投げ飛ばすとすごい音を立てて階段を落ちていった。 それを踏みつけるようにして階下へ降りる。 するとすぐに後ろから追いすがってきた男が、階下すぐにあった扉を開けているラグの背中を斬りつけた。 刃物でざっくりと長く切られたがビクともしなかったことに男は驚愕し、さらに今度は脇腹に刃物を突き立てる。 しかし厚く硬い筋肉の層に阻まれ、ラグは少しだけ刺さった刃物を虫でも払うように簡単に引き抜いて無造作に投げ捨てた。 だが、その行為が完全にラグの機嫌を損ね、猛獣のような凶暴な野生を呼び起こす。 男の首根っこを掴みあげると、相手が苦しみもがくことなどお構いなしにズルズルと引きずる。 そして半開きの扉に男の頭を打ち付け、破壊しながら扉を開けた。 倉庫の中に男に捉えられ、ぐったりとしたソフィアリの姿を見つけた瞬間、最後の理性はプツリと音を立て千切れた。 サト商会の会長が中央に打った電信から情報が伝わり一番近くにいた軍の旅団が、一刻後に早馬で駆けつけてきた。宿に共に同行したアスターはまるで獣にでも襲われたかのような宿の惨状を目の当たりにして息を呑む。 ラグの進撃を阻んだものはことごとく痛めつけられていたが、寸でのところで皆命をとりとめていた。 宿の支配人はラグの暴力や宿への損害を訴えてきたが、軍は聞く耳を持たず逆に宿の客すべてを退去させると大規模な捜索を行った。 リリオンからの書状を手にしていたアスターが、これを好機としてこの胡散臭い宿を一気に攻め落とすことにしたのだ。 「支配人、この宿には昔からオメガに非合法に売春をさせ、客のアルファにそのまま番にさせて売り渡す人身売買の容疑もかけられているようだが」 「ま、まさか。だからなんどもいうように、こちらこそ宿や従業員への暴行で、あの化け物を訴えたいところです。ここは領主セフリー様の持ち物ですよ」 そこに布にくるまれたソフィアリを抱き上げたラグとアスターが足早に通りがかって、すぐに出口へ向かっていった。 二人を見て支配人は心底嫌そうな顔をした。 「ところで、あの少年はここの地下室から発見されたが、なぜなのかわかるか?」 「知りませんよ。どうしていたのかも見当もつきません。たまに従業員志望の家出人もきますからそんなものでしょう。それよりその男に何人も殺されたんだ。殺人鬼がいるのになんで捕まえないんだ!!!」 あくまでしらを切り通す支配人を軍人が怒鳴りつけた。 「やかましい! 殺されたから口封じできると思ったのだろうが、残念ながらみな虫の息だが生きている。それよりあの少年がどこのどなたかご存知か? ハレへの領主、リリオン様の後継者として中央から使わされた方だぞ。その方を誘拐し、暴行した事。もちろんこの街の領主も彼の素性はご存知だ。ともに責任をとっていただこう」 支配人の顔が醜く歪む。別棟の捜索にあたっていた若い軍人が団長に耳打ちする。 「閉じ込められていたオメガの少年少女も見つかったようだ。拘束されたり病気のものもいたようだが。皆売られてここに来たといっているが? いい加減素直に話せよ」 団長は部下達に指示を出すと自分は晴れ晴れとした顔でラグの後を追った。 「お待ちください!!」 ラグと同じぐらいの齢の旅団長が親しげに声をかけてきた。 ラグは少しだけ疲れた顔でその男を振り返る。 アスターは彼の顔に宿る親愛の情を目ざとく見つけながら、畏まって頭を下げた。 「こんな惨状を目にしながら、リリオン殿の書状と簡単な電信の報だけで、我々を信用してくださり、感謝申し上げます」 「とんでもないです。私の団が一番近くにいて幸いでした。電信はモルス家だけでなく、軍内部からも打たれておりましたから。将軍閣下勅命です」 ラグは僅かに瞳を見開いた。そんなことになっていたとはと、驚きを隠せない。 「ラグ・ドリ殿。私もセレス・リー様も、いたのですよ。あの東の砦に」 東の砦。かつてラグの率いる部隊が取り戻した東の国境にある小さな砦のことだ。 セレス・リーとは将軍の息子。現在では軍の要職についている。 団長は若々しい声に不釣り合いなほど、深い皺の刻まれた目元に涙を浮かべた。 「お聞き及びかもしれませんが……」 そう言い訳をするようにしてから、旅団長は胸の内を話していった。 「あのとき本当はセレス様の初陣ということで簡単な補給作戦だけを遂行するはずでした。しかし味方の中にいた、将軍に反感を持つものに謀られて、敵の進撃の報を受けた撤退後の東の砦にいかされ、逃げるタイミングを見失ってしまった…… 孤立し、逆に周囲を敵に囲まれていました。あの時はみな絶望し、死を覚悟しましたよ」 情に流されてはいけないと、急ぎ援軍を送ることを拒んだ将軍の心を汲んで、申し訳程度に送られた部隊はラグのいた傭兵団だった。 つまり、将軍への申し開きのためだけの捨て駒にされたのだ。 獣人の血を引くものたちは、中央以外の出身者が多く、軍部では下に見られがちだった。 ラグもその時の事を思い出していた。 ラグの率いる味方は僅か50。取り囲む敵は500人を超え。そして砦の中には40人。 敵は東の砦を足がかりに本格的な進軍を果たそうとしていた。ラグたちは圧倒的不利に立たされていた。 「でもあなたは味方を誰一人かけさせずに敵を誰よりも多く討ち取った。あなた方が命を賭して私達を救いに来た姿を砦からみて、私達も勇気をもらって立ち向かった。あのときのことは忘れない」 日の出を考慮しつつ未明の闇夜に紛れ獣の目を使い、敵を奇襲し撹乱させた後、暁の空の下鬼神のように敵を打つ傭兵部隊の活躍が、結果敵の士気を低下させ、敗走を招き砦を取り戻したのだ。 ラグが戦争の英雄と言われるきっかけとなった戦歴の一つであった。   「セレス様も、リー将軍ももちろんあなたに感謝をしているでしょうし、獣人の血を引く傭兵部隊出身者が不利益を被ることもこれを機に見直されました。ほら、私の部隊のあの若者もそうですよ」 ひときわ身体の大きな青年が人懐っこい笑みを浮かべてぺこりとお辞儀する。 両腕には瀕死の悪党を抱えていたが…… 「俺は…… 血にまみれて生きてきた。生き方を変えようとしたがこのザマだ」 痛ましいげに見つめた先は、腕の中に眠る少年の、美しいが窶れきった寝顔だった。 「なにをいうんです。守った命だって沢山あるんです! 見てください!」 そう言って軍服の中に手をやり、大きなロケットを取り出すと中を開いてみせた。 優しそうな女性と可愛らしい赤ん坊の写真が納められているのを掲げるように見せつけてきた。 「あの戦のあと授かった命です。あなたのその手は人を守る手だ。どうかこれからは大切な人を守ってあげてください」 そういうと最敬礼を残して去っていった。 「お前のせいではない。おいおい解決に力を借りようと思っていたが…… この件は完全に俺の罪だ。巻き込んで悪かったな、ラグ」 肩を叩いて息子にするようにラグの高い位置にある頭を撫ぜたアスターは、そう言うと頭を下げた。 以前アスターと酒を酌み交わしていたとき、周囲との軋轢を避けるために引いていたこともあったも言っていた。きっとこれもその手のことだったのだろう。 「私の香水に惹かれてオメガを求めてやってきたアルファを目当てに始まった、オメガの売買だ。何度もやめさせようとしたが、うちの農園のものたちを守るのでいっぱいいっぱいで、リリオンも年老い、他の領主への影響力を失い、いうなれば見殺しにせざるを得なかった…… あのオメガたちは俺のようなちっぽけな男の犠牲になっていたのだよ……」 ラグは首を振る。そしてソフィアリを愛しげに眺めたあとでアスターに向かい呟く。 「守った命も多かったはずだ」 先程己が団長に言われた言葉を繰り返すラグに、アスターは彼が普段けしてみせないような格好の悪い泣き笑いの顔で応じた。 「お前たちは、やはりこの街の救世主かもな……」 ラグは吹っ切れたような顔で僅かに微笑む。 「そうあろうと、努力する。ソフィアリとここで生きていく」 そう言い切って、ラグとアスターは互いに顔を見合わせて頷きあった。

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