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第9話

タタタタ......。 長い長い廊下を、風の如く走り抜ける人型の狼。その左肩には無様に担がれた僕。 逃亡し始めて、もうかれこれ20分は経過しただろう。あの男の姿はとっくに見えないというのに、だ。早く降ろせと言いたかったが、あまりにもスピードが速く舌を噛みそうだったので、尻尾でペシッと叩いてやった。 狼が、ピタリと立ち止まって振り返る。 「どうした?...って、あれ。なんだあ、巴もうへばっちまったのか。つまんねぇの」 呑気な言葉に絶句する。シュタッと肩から飛び降りると、くらくらと少し目眩がした。 「お前なっ..!一体なんなんだ、駆けっこだとでも思っていたのか!?王子だかなんだか知らないが、もういい!さっさと帰れ!」 「あれれ、俺のこと殺さなくていいの?」 からかうように、僕の顔を覗き込む金色の瞳。いたずら好きのするその笑みに苛立ちを覚えて、睨みをきかせて返してやった。 「面倒ごとには巻き込まれたくない。狼一族の王子を殺したりしたら、僕の首はあっという間にこうだ」 手を首にかざして、サッと当てる。例えや冗談なんかじゃない、本当だ。狼一族は妖狐一族の重要な貿易相手でもある。両国の王と天皇の仲も含めて、関係は良好。下っ端中の下っ端の僕が、その王子を殺しでもしたら。――結果は誰にだって分かる。 「だから、今回は見逃してやる。分かったら皇居の者に見つからない内に早く......」 「何で?」 「……は?」 「だから、何でだ?」 ――何が言いたいんだ、コイツ。 「もの分かりが悪いな。逃がすと言っているんだ、早く帰れよ」 「い・や・だ」 ベーッと舌を出して、訳の分からない抗議をする狼。いや、本当に訳が分からない。どうしよう、ここまで行動が理解できない奴は初めてだ。蝉、落ち着け。一旦頭を落ち着かせるんだ。深呼吸して、スー...。ハー....。 「...いやどういうことだよ!!」 分からないぞ!深呼吸しても無理だ! 「はははっ、面白れーなぁ、お前!なあ、名は何て言うんだ?」 「自由か!お前から先に名乗れ、不法侵入王子!」 ゼエゼエ息が切れる。 狼、もとい不法侵入王子は、ニカッと笑って親指で自身を指した。 「俺の事は(じん)と呼んでくれ!」 「じ...じん...」 「漢字で書くとこうだぜ」 腰に巻いていた袋から何やら紙と筆を取り出し、ササッと文字を書くおおか......じゃない、じん。 「...これで、じんと読むのか」 半紙に書かれた、大きな文字。でかでかと主張が強く不器用なそれは、まさにコイツが書いたと一瞬で分かるような字だった。仁、と書かれた文字をじいっと見つめる。僕の知らない字だ。もっとも、漢字といえば外交のため教えられた漢数字と自分の名前くらいしか知らないけれど。 「カッコイイだろ。な、お前は何て言うんだ?」 「私は...」 すんなり名前を教えそうになって、ハッとした。いけない、そう簡単に教えては、もしもの時に困るだろう。最近では名前を利用する呪術も行われると聞いた。 仮の、名を、仮の、名...。 考え込んでいると、仁が不思議そうにつっついてきた。 「おい、触るな」 「だって,お前遅いから。何だ、記憶喪失か?」 「...(なり)」 「え?」 「荷だ。そう呼べ」 慌てて、とっさに思いついた名前。言ってから、自分で自分を殴りたくなった。 何てネーミングセンスのなさだ、蝉...!苗字が稲荷だから、一文字とって“荷”。日本 太郎もびっくりの発想だ。 だけど、仁はすんなりと信じ込んだ。 「荷って、稲荷の荷か!かっこいいな!天皇と似てて!」 「......」 バカで良かったと、心底思った。 「荷、今日はとりあえず帰るけど、これからよろしくな!」 「よろしくない。二度と来るな」 「おう、またなー!」 「............」 狼一族の王子サマ、らしき不法侵入者。言葉の通じないソイツが山の方に駆けていく姿を見やると、美しい銀の狼が毛並みを輝かせて、闇の中に消えていくのが見えた。

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