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第1話

 二十畳はあるらしいリビングの隅に設えられている、小上がりのような畳スペースで、高遠遥は桜木俊介を相手に薄茶の点前の練習をしていた。炉も切られており、釜には湯が沸いている。  このためだけに着物を毎回着せつけられるのにも慣れた。  袱紗さばきで塵を払い、棗を拭いているところで、テーブルの上のスマートフォンが鳴り出した。 「ああっ、気が散った」  遥ががくりとうなだれ、棗と袱紗を持った両手を腿の上に置いた。  遥のスマートフォンにかかってくる電話相手は、基本的にただひとりしかいない。素早く畳スペースを降りた俊介が、スマートフォンを取って遥に渡した。 「はい? こんな昼間にどうした?」 『明日、何か稽古はあったか?』  相手は無論、遥のつがいであり加賀谷精機社長、加賀谷隆人だった。 「明日は茶道。今練習中だった」 『休むか?』 「は?」  遥は絶句した。隆人がこんなことを言うなど普通のことではない。 「なぜ?」 『昨日、お目にかかったレヴァント夫人からのお誘いだ』 「えっ?」  遥の胸がどきんと音を立てた。昨夜の黒いチャイナドレスの麗人が頭に浮かぶ。 『ちょっと待て』  遠くで隆人が英語を話しているのが聞こえた。レヴァント側と話をしているのだろう。 『ツーリングにお前を誘いたいそうだ』 「行く!」 『そう言うだろうと思っていた』  隆人が笑ったのがわかった。 『では、明日は小蓮(シャオレン)夫人と外出に変更だ』 「ありがとう、隆人!」 『詳しいことは桜木に連絡するから、そう伝えておけ』  通話が切れた。遥はスマホに軽くキスした。 「俊介、明日の茶道の稽古はキャンセル! ツーリングに連れて行ってもらえるって!」  俊介が事態を飲み込めずに首を傾げたとき、そのスマートフォンが鳴り出した。 「失礼いたします」  玄関の方へ俊介が消えると、代わりに諒が入ってきた。 「明日のお稽古を休まれるのならば、今日しっかり練習しておきましょう」  俊介の次に厳しい諒がにっこり笑って、遥を畳スペースに促した。  茶の稽古が終わった頃には、桜木家の動きが慌ただしくなっていた。特に俊介は何本も電話をかけたり、受けたりしている。時には英語で早口のやりとりをしていた。  遥は着物からスリムのジーンズにシャツという軽装に着替えさせられ、昼食を摂った。そしてなぜか頭のサイズを測られた。  午後の早い時間に、出入りの老舗百貨店の外商担当、高橋が訪ねてきたと、遥は応接室に呼ばれた。俊介が付き添っている。  高橋が丁寧に頭を下げた。 「加賀谷様、ご依頼の品をそろえてまいりました。ご試着ください」  百貨店には遥の本名は明かされていない。加賀谷隆人という顧客に対して外商担当は動いている。おそらく遥のことは同性の愛人とでも思われているのだろうが、そんなことは全く問題にされていないようだ。  並べられていたのはワイシャツらしき白いシャツと、黒のブーツだった。 「カッターシャツというのは、もともとはミズノのスボーツ用シャツの商標名でした。現在ではワイシャツと同じ意味で使われておりますので、四枚ほどお持ちいたしました」 「シャツの試着は必要ないな、俊介? Mだろう?」 「今後ワイシャツとしてお召しになる機会が少ないでしょうから、そのような選び方でかまわないかと存じます」  遥は似たような白いシャツの中から、ボタンダウンの一着を選ぶ。目はすぐにブーツに向かった。 「ブーツ、カッコいいな」 「当店の紳士靴売り場で保管させていただいております、加賀谷様のサイズを基に選んでまいりました。ご試着ください」  ロングブーツとショートブーツ、両方が用意されている。 「どれもライダースブーツなのですね?」  俊介の問いに高橋がうなずいた。 「ロングブーツが履いてみたい」  遥の要望に高橋がファスナーを下ろし、中の詰め物を取り出してから、差し出してくれた。  どきどきしながら足を入れ、ファスナーを上げる。 「筒まわりが緩いですね」  一目で高橋が見抜いた。すぐに次が用意される。 「こちらはいかがでございましょう?」  履き替えたロングブーツはしっくり馴染んだ。 「このお部屋の中を歩いて履き心地をご確認ください」  俊介に言われて、遥は応接室を隅々まで何度も歩いてみる。 「これ、歩きやすい」 「お決めになりますか?」 「うん、これにする」  遥がそう言うと、高橋がうれしそうに笑んだ。 「お気に召したものがあって、ようございました」 「ありがとう、高橋さん」  遥が笑顔を返すと、高橋が恐縮したように頭を下げた。  高橋が帰ると、遥はチノパンに履き替えさせられた。 「このジーンズは明日穿いていただきます」  喜之がそう言って、カッターシャツと一緒にクローゼットにしまった。 「カッターシャツの上には何を着ればいいのかな」  ベッドに座って、子どものように足をぶらぶらさせていると、喜之が振り向いた。 「それはまだ先方から指示が来ておりません。確認いたします。今しばらくお待ちください」

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