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第17話

 この日の練習はそれきり、岸先輩が表舞台に立つ事はなかった。    ネットの片付けの後のストレッチまで顧問は見届ける。顧問曰く「本来ならアイシングまでやらせたいところだ」と怪我防止にうるさい。  解散後の部員は二極化したグループが一日で有耶無耶になっている。八島に背中を叩いて声を掛ける多田先輩がそれを台頭してるかのようだ。   「——岸先輩」  あまり聞かない八島の声に、部内は一気に静まり返る。彼はそれほど有名人ということらしい。    「後でちょっと」と言葉を濁して戻って行った。  視線を集めすぎてそそくさと戻ったのだろうと分かったが、なぜか、釈然としなかった。  わだかまりがあるとすれば、八島に岸先輩の代わりは務まらないということ。だが、それだけではないのは、この苛立ちが教えてくれている。  しかし、気づいてはいけないものであるということも、理性が警鐘を鳴らしていた。    それでも、八島が岸先輩に何の用があるのかは気になる。   「八島も後輩らしくなったなー」 「っス。多田先輩、テスト勉強の面倒、よろしくっス。俺、期末考査全部赤点っした」 「おいおいおいおい! さっきの冗談、マジだったのかよ!!」 「内緒にしててくださいよ。俺、頭良いで通ってるんで」 「そんだけアホなら、すぐボロが出るから安心しろ。すぐバレっから」  なにやら多田先輩とは仲が良さそうである。 (だったら岸先輩じゃなくても良かったじゃないか——ダメだ、これ以上の詮索は僕にも良くない。とっとと帰ろう)  「岸先輩、クイックの助走教えてください」頭を下げている八島がいる。  篠田は帰路について程なくして、足が体育館に向いて歩みを変えていたことに気づく。そして、八島が頭を下げているシーンを見てしまうのだ。  滅多に表情を変えない八島が、表情筋を動かそうとしている。  先輩の話によると、「岸以外には表情が変わる」という情報だ。  ——ますます怪しい。館内まで入らずに、出入り口付近で蹲み込んで、耳をそばだてる。 「それはまた、俺にどうして」 「……っ、篠田にクイック教えたの、先輩じゃないんスか?」    「俺はアイツを越えたい……」これは本人が聞いてはまずい事を聞いてしまったような気がした。心臓が跳ねるが、ここから動こうとも思わない。 「あのね、特訓はしたけど、篠田には技術的な事は一切教えてないよ」    「もともと上手な後輩だよ。あ、勿論八島もね!」とフォローまでいれる岸先輩は優しすぎる。 「俺が教えられるのは理論とかくらいだよ。技術は先生や多田からわかりやすく教えてもらったほうが良いんじゃないかな」 「どうして、多田先輩が出てくるんスか」 「だって、高崎先生が多田に教えてもらえ、的な事言われてなかったっけ?」 「そんなことまで聞いてたんスか。ちょっと違うっスけど」 「何を言われてるのか気になって……。八島と高崎先生って、結構仲良しだから、聞いてて面白いし」 「はぁぁ、自分がコートに立っているというのに呑気だったんスね」 (は? 八島の奴、岸先輩二人きりになった途端饒舌に喋るじゃないか。んだよ、それって——)  続きの言葉は考えたくもなかった。掌で顔を覆い、思いつく最悪の事態を遮断させる。 (有り得ない……いや、だってあの仏頂面は、バレーを始めたのだって動機があまりに不純すぎただろ。だから、バレーにも部員にも興味がなかったはずで)  地獄のような夏季休暇を思い返し、部活終わりに八島が女子に囲まれているところを偶然にも遭遇したことがあった。  他の運動部や文化部の女子だ。  見るだけで暑苦しいので、声だけ傍聴することにして、後を尾けた事があった。  甘ったるい声を出す女子共は、もはや女子とは呼べない代物で、「女」を前面に押し出していた。  胸焼けしそうなほどの甘ったるさを遠巻きの篠田が感じているのだ。当人である八島に初めて同情の念を抱きそうになった(恋愛よりも部活を優先にしているが、他の男子なら喜ぶ状況だろうか)。  しかし、適当にあしらうものと思って、軽い気持ちで傍聴を続けると八島が、トーンを下げていった。「しつけぇ」。    その後ぼやいた言葉も篠田の耳に入ったのだから、八島の周りに蔓延る女子は凍りついていただろう。「これが面倒だから、部活に入って忙しいふりするつもりだったのに……」と酷薄な事を言ったのだから。  一瞬でも同情の念を抱きかけた自身に叱咤したあの日を良く覚えている。  八島は女除け程度に部活を利用していたのだ。目標も何もない奴が、期待の新星だとは反吐が出る思いをしたのはまだ記憶に新しい。  そして、そう思っていても実際自力では八島には敵わないと思い知らされた日でもある。  自棄を起こしてボールぞんざいに扱ったその日、岸先輩がプライベートでトスを上げてくれたのだ。  もともと憧れだった存在から手を差し伸べられ、篠田の中で絶対的な存在となり得るのは仕方のないことといえばそうであった。

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