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第8話
一歩近づき、陽斗の手を取って紳士的な仕草で手の甲にキスをする。
すると、心臓がバクンと激しくはねた。同時に、頭の奥で警告音がする。うるさく鳴るサイレンは、陽斗の記憶に深くきざみこまれたトラウマだ。
――ダメよ。絶対に。アルファの誘いに簡単に流されたら。後でつらい思いをするのは、いつもオメガだけなんだから。
頭の中で母の声がする。その警告が、陽斗の興奮を強制的にしずめていく。
冷えた眼差しになった陽斗に、男はおや、というような表情になった。
「君は何も感じないの? 僕を見ても」
美麗な瞳は、蒼い輪郭にいろどられた銀色だ。しかし奥まで澄んだ虹彩は人形めいていて、そのせいで感情がうまく読み取れない。優雅に微笑んでいるけれど、どこか冷たい印象がある。
「そうか。発情がまだだから、番を認識できないのかな。でも大丈夫。心配しないで。いい医者をたくさん知っているから。発情するための相談はいくらでも受けられる」
男が嬉しそうに言うのを聞いて、陽斗は次第に腹が立ってきた。
この男はいったい、ひとりで何を勝手に話しているのか。
陽斗は男の手を払いのけた。
「やめてくれ。あんたが誰だか知らないけれど、いきなりやってきて変な真似するんだったら、さっきの男と同類だぞ」
陽斗の言葉に、男が目をみはる。そして、同情めいた口調で言った。
「どうして怒るんだい? 発情がないことを恥じる必要なんてないのに」
こちらの事情を慮らない無神経な言い方をされて、さらに頭に血がのぼる。
「帰ってくれ!」
陽斗は男に怒鳴った。
「無礼な野郎だな。レア・アルファだからって、オメガに何言ってもいいと思ってんのか。偉そうに。俺たちはお前らの玩具じゃないんだぞ」
口汚く罵ると、それには男も眉根をよせて困惑した表情になった。
これ以上こんなにオーラの強い男と一緒にいたくない。胸が不穏な鼓動を刻み始めている。そしてアルファの魅力に飲まれそうになって、戸惑っていることを相手に知られたくもない。
それはトラウマ持ちオメガの精一杯の矜持だった。
「帰れ。二度とくんな」
陽斗は踵を返すと玄関に向かい、落ちていた鍵をひろいあげて玄関扉をあけた。
そうして逃げるように家の中に入ると、後ろも見ずに音を立てて引き戸をしめた。
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