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第90話

 クローゼットはあけ放たれていて、中には高級そうなスーツが何着も吊されていたが、その下にはプラスチック製の簡易タンスがあるのみだ。  高梨はこの部屋の他に書斎を持っているようだから、ここには寝にくるだけなのだろう。しかしそれにしても私物があまりにも少ないことに驚かされる。流行のミニマムな暮らしをしているのかと考えたが、そんなお洒落感はまったくなく、印象はただただ殺風景だ。  陽斗はベッドに近づき、眠る相手を見おろした。ぐっすりと寝入っている高梨は、穏やかな表情をしている。  この人はずっと、こんな寒々しい部屋で寝てきたのかな、と思うと胸に不思議な感傷がわく。豪華なホテルを経営するCEOで、最初に見せてもらったスイートルームは、素晴らしい飾りつけがなされていたのに、本人はこんな何もない場所で、毎日眠っていたなんて。 『父と僕は、主従の関係でしかなかった。愛された記憶はない。だから、家族愛とか兄弟愛とか、そういったものは見当がつかないんだ』  スイートルームですごしたとき、たしか彼はそう言った。自分のことを、命令する主人がいないと、路頭に迷うロボットのようだとも。  陽斗が夕食を作って待っていたときは、何と言って喜んだか。 『自分の家じゃないみたいだ。家族みたいな人がいる』  人形のように怜悧な顔を嬉しさで一杯にして笑っていた。  それを思い返せば、胸にやるせなさがこみあげる。 「……高梨さん」  床に膝をつき、枕元に手をおいた。白金色の長い睫がピクリともしないのを、長い時間飽きずに眺めてすごす。  彫刻のような面立ちは完璧すぎて、青白い月明かりのもとではまるで大理石の芸術品のようだ。けれどこの人の中にはたしかにたくさんの感情があるのだろう。

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