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案件3-3
まあ多少のインモラル事件はさて置き、メインルームに到着したパトリシアは社員総出で歓迎され、温かく際限ない拍手で迎えられた(拍手に掻き消されて幸いだったが、彼女の第一声は「Wow…Looks like a pig farm(ワオ、豚小屋)」だった)。
全員が新たな希望へ胸をときめかせている中、貴重な半休を失った千葉君がクラッカーを鳴らしてくれる。スパーーン!祝砲!一帯は安っぽいホームパーティーの匂いに包まれた。
「みなさん…ありがとう!今日からお世話になります、パトリシア・ディーフェンベーカーです!」
「よっ!RICのエマ・〇トソン!才女だよ、隠しきれない語学力にじみ出てるよ」
「一緒に例のあの人に勝つんだ、闇の魔術に対する防衛術を教えてくれ」
「変な歓声やめな君たち~、一先ず長旅お疲れ様、席は用意してあるからどうぞ掛け…あ!それはゴミ」
青いフィルムのはみ出た雑誌を払い退け、萱島が紳士的に彼女のスペースを確保する。パトリシアは幸い気にした素振りもなく、礼を言いながら降ろしたリュックの中身を並べ始めた。
その中の土産物の一つ…多分空港で後付けで買われたマカデミアナッツを手渡すと、歓待の時間もそこそこに業務連絡を切り出す。
「萱島さん、早速で申し訳ないんだけど…明日の休暇申請をしたいの。部屋に荷物を色々搬入しなきゃいけなくて…」
「休暇申請?オーケーオーケー、承った」
「あ、申請とかは無いんだ?ところでこのオフィスの定時って何時?」
「定時?ないよ」
「…?Fixed timeよ?」
「ないよ」
怪訝な顔で見た男の目は、そこだけくりぬいた様な深淵に変わっていた。
イラクで見たドブ川のようね。萱島の瞳へ懐かしい古巣の汚染区域を思い出し、少女はセンチメンタルに思いを馳せる。
その工業排水が浮かんでそうなドブ川の持ち主は口だけ笑みを携え、「まあまあお嬢さんは未だ日本社会の仕来りとかわかんないからね」みたいな面でペンを回している。何故か愉悦を湛えて。パトリシアは正気を奪いそうな社畜から向きを変えると、子供用シャンメリーを注いでいた戸和へと問い直した。
「ねえ、定時っていつ?」
「定時?ない」
「フレックスタイム?そんな話あったっけ」
「フレックスタイム?総労働時間は特に決まってないな…コアタイムは0時から24時くらい」
「は?」
「おいおい24時間稼働はないだろ、流石にそこまでブラックじゃないわ~」
「昔の栄養ドリンクのCMかよって」
「ねえ」
実は既にパトリシアは把握していた。この会社の劣悪なまでの労働環境について。
なんせパトリシアが主に話を聞いていたのはある種”根源”である副社長であり、例え出自が違おうが端から端まで突っ込みどころ満載だったから。
度を超えた残業時間についても知っていた。だからノータイムで定時を知らんと言われた時、「はあ?」と思いつつ、やっぱりねと諦めも抱いたのだ。
抱いたのだが、問題はその後だ。
父の優秀な地頭を受け継いだ彼女は、その労働環境が解決しない真の原因にも気付いてしまった。
「…酔ってる」
「ん?どうしたパトリシア、俺たちは基本的には素面だぜ」
「酔ってるのよ、貴方たち」
多分少年誌なら大ゴマが割かれているであろう緊張感。半笑いを浮かべていた社員らが固まり、趣旨を汲み取れず時が経つが、それでも深刻さだけを悟った萱島がたっぷりの沈黙から戻ってくる。
「……………え?」
「定時なんて無い、24時間稼働も満更嘘じゃない…そんな環境を異常だと知りつつ、異常な環境で頑張ってる自分たちに酔ってるのよ!」
「俺たちが異常な環境で頑張る自分に酔ってる……?」
誰もが素のまま理解出来ずオウム返しをするが、酔っている?まさか?
嫌だクソだと言いつつ、実のところ追い込まれた自分を格好いいと自己肯定の材料に使っている?つまり2時間しか寝てない…いや、実質1時間しか寝てないを素でやっているのか?
次第に全員の脳が少女の至言を理解し始め、パーーン!!と喧しく海堂くんの眼鏡が弾け飛ぶ。
これまでの常識を覆された…否、全員で見て見ぬふりしていた真理を白日に晒され、社畜の自我が崩壊した。
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