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第2話

 遡ること約一時間、シートベルト着用サインが消えた頃のことだ。公平は離陸したばかりの機内に強いオメガ性フェロモンが香っているのに気づき、そばにいたCAへフェロモンの持ち主との座席交換を申し出た。    エコノミークラスは満席だったらしいが、旅客リストに登録されていたオメガの乗客は彼女ひとりだったのですぐに見つけることができたと聞いている。伝聞形なのは、公平は彼女の移動が済むまで化粧室に隠れていたからだ。    発作が起こっている時にアルファが目の前へ現れたのでは相手がパニックを起こしかねないし、自分もどうなるか分からない。彼女への気遣いと、自分が「加害者」になってしまわないための自衛策だった。    バースファクターと通常の生殖器官の一番の違いは、性フェロモン分泌の有無だ。アルファとオメガは身体の成熟とともに特殊な性フェロモンを発するようになり、それは一般的に「匂い」として認識される。    動物でも同じことだが、性フェロモンの役割は「交尾が可能な状態を他の個体に知らせること」だ。そのためバースファクターの発する性フェロモンには催淫効果があり、妊娠させる側に回ることの多いアルファは特にこの影響を受けやすい。    そのため多くのアルファとオメガは、フェロモンの分泌を抑える《抑制剤》やフェロモンに対する反応を鈍くする《抵抗薬》を服用している。自身のフェロモン分泌量や性衝動をコントロールするためだ。そうでもしなければ、とてもではないが安心して日常生活を送ることはできない。    またオメガには概ね月に一度、発熱などの体調不良とともにフェロモンが多量分泌される期間が数日あり、これが俗に《発情期(ヒート)》と呼ばれている。    発情期はアルファとの性交渉を重ねることで期間を短縮できるようだが、基本的には薬で症状を抑えながらこの期間が過ぎるのを待つしかない。体調によっては発情期以外でも突発的なフェロモン分泌の発作が起こることもあり、オメガは雇用の上で冷遇を受けやすく社会問題化している。 「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。座席の差額、お支払いします。おいくらですか?」 「いえいえ。ほんと、大丈夫ですから。たまたまマイルの特典で取れた座席だったし……人の役に立てたなら、自分で使うよりむしろお得感あるっていうか」    公平がそう言って固辞しても、女性はしばらく頑として財布を仕舞わなかった。埒があかないので差額の代わりにハンバーガーセットをご馳走してもらうことにしたが、そういうつもりで席を譲ったわけではないのでかえって恐縮だ。    家族が迎えに来るという彼女とはそのまま空港のフードコートで別れ、公平はモノレールで新居を目指した。大学から歩いて十分のところにあるシェアハウスだ。二階建ての庭付き一戸建てで、部屋数は五つ。古い下宿をリノベーションした家らしいが、写真で見た限りではルーフトップバルコニーのある綺麗な建物だった。    先住者の内訳は男性三名に対して女性が一名。そして四人中三人がオメガで一人がアルファ。そう聞いている。住人にベータがいないのは、このシェアハウスに敷かれている特殊な「共有ルール」と「入居基準」のためだ。    そのルールと基準ゆえ、ベータはこのシェアハウスに入居できない。というより、ベータにとっては少々過酷なルールと基準なのだ。よほど特別な事情がない限り、入居を希望するベータはいないに違いない。    何度か乗り換えを挟んで辿り着いた町は、公平の知っている「東京」とは少し雰囲気が違った。鈍行しか停まらない駅は無人改札で、すぐ目の前が商店街になっている。けれど平日の昼とあってか人通りは少なく、たった今公平が降りた下り電車が遠ざかると、どこからか小さくラジオのニュースが聞こえてきた。そのくらい静かだ。 「北口……で、合ってるよな」    公平は誰にともなく小声で発し、ブルゾンのポケットから携帯を出してメッセンジャーアプリの履歴を遡る。    その時だった。その人とすれ違った瞬間、公平の鼻先を濃くて甘い香りが掠めた。思わず顔を上げて振り向く。明るいグレーのスプリングコートを着た、華奢な後ろ姿が改札を抜けていく。    背丈からして恐らく男性だ。百七十センチくらいはあった。オメガなら、女性はまずそこまで伸びない。    抑制剤が効いていないのか、飛行機の彼女のように発作を起こしているのか──どちらにせよ、思わず振り向いてしまうほどのフェロモンというのはただごとじゃない。    春先は体調を崩しやすいと聞くし、そうは見えなかったけれど、もしかしたら具合が悪くて困っているかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられず、公平は彼を追って改札へ取って返した。──が。 「うわっ!」    ICカードのチャージが足りず、足止めを食らった。そうこうしているうちに上り電車が入ってきて、その電車が走り去ったあとのホームに彼の姿はなかった。    あたりは再び長閑な静けさに包まれ、我に返った公平は自分の行動に頭を抱える。    まともな判断能力を持ったアルファなら、振り向かされるほどのフェロモンを放っているオメガの前に進んで出ていったりはしない。現に公平だって、飛行機の彼女が発作を起こしている間はずっと身を隠していた。    とするなら、公平が彼の後を追おうとした本当の理由は「具合が悪くて困っているかもしれないと思ったから」ではない。    本当の理由はもっとどうしようもない、人としてあるまじき衝動──きっと「彼をすぐにでも自分のものにしなければならないと思ったから」だ。    冷静になって考えれば分かることが、ほかにいくつもある。    あれだけしっかりした足取りで歩き電車に乗って出かけていったのだから、きっと彼の体にはなんら異常は起きていない。もしかしたら、人より少し平常時のフェロモンが多いタイプの人ということはあるかもしれないが。    とするなら、異常なのは自分の方だ。長時間の移動によるストレスで、軽い《発情(ラット)》を起こしたのかもしれない。    オメガのように決まった周期はないものの、アルファにも発情の症状がある。ラットと呼ばれるそれはフェロモン受容体の過剰反応によるもので、判断力の低下や酩酊を伴いながらアルファを強制的に性行動へ掻き立てるのだ。強いオメガ性フェロモンを感受した時のほか、ストレスや体調不良が原因で発作的に起こることも多い。    症状の軽いうちは対象と距離を置いたり頓服薬を用いることで治まるが、重症化した場合には他者との性的接触以外で状態が改善することはない。しかし日常的に微量のオメガ性フェロモンを感受することで耐性がつき、その頻度を減らすことができるようだ。    残る一つのパターン──非常に低い確率ではあるものの──は、自分と彼のフェロモンタイプが稀に見る好相性であったのかもしれない。ということ。    アルファとオメガのフェロモンとその感受性には、遺伝的なルーツによって相性の良し悪しがある。「相性の良い者同士ではお互いのフェロモン分泌が増え、悪い者同士では逆に減退したり、反比例したりする」といった具合だ。    相性が良い相手のフェロモンほど良い香りに感じる。というのは俗説だが、自分と異なるバースファクターの相手と付き合ったことがあれば誰しも心当たりがあるに違いない。    要するに、フェロモンの相性というのは体の相性だ。そして、我を忘れるほどの芳香を放つ相手のことを「運命の人」と言ったりする。これもあくまで俗説ではあるが「お互いに『運命の人』と感じられるほどの芳香を感じ合う相手とは、平均で十日以内、遅くとも十四日以内には結ばれる」という統計もあるらしい。    彼があの瞬間、自分と同じように「芳香」として公平のフェロモンを嗅ぎ取っていたかは杳として知れない。けれど、もしICカードの残高が足りていたら──きっと公平は、彼にとても酷いことをしたに違いなかった。我がことながらぞっとする。    そんなことを考えて固唾を飲み、ついでに頓服の抵抗薬も飲み下した時だった。迎えに来てくれた先住者から着信があって、公平はあたりを見回しながらその電話に出た。 「──もしもし、安斎です。はい。今北口に……ああ、いましたいました」    道向こうに黄色いクラシックミニが停まっていて、スカジャンを羽織った少しやんちゃそうな男性が窓から手を振っていた。 「遅くなってごめーん! いま後ろ開けるから!」    彼は運転席を降りてくると、スーツケースの持ち手を下げた公平の顔を見上げて目を丸くする。 「でか! 身長何センチ?」 「百八十八です。……言うほどですかね」 「でかいよ。っていうか、ビデオチャットじゃそういう印象なかったからびっくりした」    言いながら彼は公平のスーツケースを片手でひょいと積み込み、大きな音を立ててトランクを閉めた。そして、短い爪の分厚い手を公平に差し出す。 「改めまして、美女木(びじょぎ)健(けん)です。〝メゾンAtoZ〟へようこそ」 「安斎公平です。すみませんお休みの日にわざわざ……これから末長くよろしくお願いします」    差し出された手を取り、頭を下げる。すると美女木は少し含みのある声で笑い、握手をしたまま公平の肩を叩いた。 「ははは! 個人的にはいつまでも居るようなとこじゃないと思うけどね。でも、当面の間はよろしく」    公平もまた彼の言わんとしていることを察し、肩を竦めながら促されるままに助手席へ乗り込んだ。

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