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No.2:音のない世界へようこそ

「い…いらっさいませ…ぇ…」 おぼつかない言葉 記憶の片隅にある幼少期の思い出に‟自分の声”なんてあるわけもなく 授業で習った発音を頼りに久し振りに声を出してみた 喉に触れると確かに振動を感じるが… 自分で自分が「いらっしゃいませ」と正しく言えているのかが分からない だから目の前にいるしかめっ面の兄、桜隼人(さくらはやと)に助けを求めた 『お前、それくらい言えてれば十分だと思うよ』 『…兄貴、その顔で十分だと本当に思ってるのかよ…』 長年話し相手をしてくれていた隼人は流暢な手話で事を終わらせようとする。 ‟ちょっと客になって聞いてみて欲しい!” そう言われてハルの前に座らされた隼人は嫌々だった。 『本当だよ。そんなにかしこまって練習しなくても、お前の声は綺麗に聞こえるよ』 少し照れ臭そうに弟を褒める隼人の顔が少し赤らむ。 その表情で‟十分だ”とハルも思えた。 隼人は健聴者だ、普通に耳が聴こえるが故に昔からハルの音声勉強の先生でもある。 小さいころは手話の方がおぼつかなくて音声に頼っていたが、 今では手話の方がスムーズにコミュニケーションが取れる2人だ。 改まって練習するのが久々過ぎて何だかぎこちなくなってしまったのだ。 『接客の大半は指でメニュー表をさしてもらうか、筆談。でも入店してきたお客様に無言は感じ悪いのかな?と思ってさ…』 『お前がそう思うなら、試してみればいいんじゃない?』 『うん…その内、顔見知りが増えて声で挨拶なんていらなくなれば良いなって思う。  手をパッと挙げてニコニコお互い挨拶になるような仲のお客様が出来たら素敵じゃん?』 『はは、そうだな』 片手を挙げそのままハルの部屋を出て行った隼人は、独り廊下でふーと溜め込んだ息を吐き出していた。 「引き籠ってたのはこれのせいか…(笑)」 ‟ここ最近、部屋に籠ってて心配なんだけど、隼人…何か知らない?” 母親からハルの心配事を持ち掛けられて気にはしていたが、籠っている部屋をこっそり覗くとパソコンと睨めっこしていたり、今の発声練習だったり… 「きっとメニュー表作ったり、接客の事で頭いっぱいだったんだな」 頭の中の霧が晴れたようにスッキリすると、その足で隼人は今も不安げな表情をたまに見せる母親の元へ向かい‟心配する程の事じゃない”と笑いかけた。 ――数日後 ハルは人生で初めてのアルバイト初日を迎えていた。 【改めて、今日から宜しくお願いします】 「こちらこそ、宜しくね」 この日の為に用意したA4サイズのホワイトボードに書いたメッセージを見せつつ、椎名にペコリと頭を下げると、可愛い後輩が出来た気分の椎名はニコニコとその肩を叩いた。 【それ、もしかしてオレの為ですか?】 「あ、あ~僕も暇な時は手話の練習をしようかなと思って…わっ!」 照れ笑いをする椎名のズボンのポケットからは‟手話辞典”と書かれた小さな本がチラリと見えていた。歓喜余ったハルはつい椎名に飛びついてハグをしてしまい、は!と我に返った。 【ごめんなさい!つい嬉しくて】 「いや、大丈夫大丈夫」 良いよ、と何となくジェスチャーで返す椎名に何度も頭を下げたハルだった。 ―― 「ありあとうございましたー」 今日何度目かの接客をこなし、ハルは帰って行った客のテーブルを片付けて回った。 【初めてなのに良いペースだね】 途中、椎名からそんなメッセージを書いて渡され晴れ晴れとした気分だった。 何より今日訪れた客の大半がこの店の落ち着いた雰囲気を求めた女性だったのもあったせいか、まだ慣れない接客にも笑顔で対応してくれたのが有り難かった。 客が来る度に椎名が‟常連さんだよ”‟この人はたまに来てくれるかな”と教えてくれるのだ。 記憶力が良い方だと自負しているハルは、教わる度にその客の顔を頭に叩き込んでいった。 それから平日の学校帰りには毎日バイトとして通うようになったハル。 ちょっとしたミスが起こる事はあったものの大きなトラブルもなく、 椎名さんに珈琲の事を教わりながら楽しい時間が過ぎて行った。 空は夏の色から秋に移り変わっていく。 少しずつ涼しくなり半袖の制服では肌寒くなってきた頃だった―― 【ハル君、ちょっと相談があります】 その日もいつも通り店を閉め、最後にエスプレッソマシンの洗浄をし始めた時だった。 椎名がホワイトボードを手渡しながら困ったような嬉しいような複雑な顔を見せた。 【ハル君の仕事姿を見て慣れてきた様子を感じる。 もう1人、バイトを採ってみようと思うんだけど、どうかな?】 ぇ…と言葉に詰まるハルを見て、またサラサラと椎名は書き出した。 【ぼく自身、ハル君が来てくれた事で人を雇うのは初めてだった。 実際1人では忙しかった仕事も日々落ち着いて全体を見渡せるようになったんだ。 お店も常連さんと立ち寄りの人が双方増えてくれているから、バイト増員、考えてる】 バイトの自分にわざわざ了承を得ようとしている時点で椎名の優しさを感じる。 この店の店主は椎名なのだから、自分だけで決めることも出来るはずなのに、 ハルの事を気遣って相談をしてくれているのだ。 『ありがとうございます』 深々と頭を下げてからハルは椎名の手からホワイトボードを受け取り"バイト増員”の文字に丸をつけた。 『僕は良いと思います』 椎名はハルの手の動きを見て笑った。 【ありがとう、実はハル君と同じ様にここでバイトさせて欲しいって来た子がいるんだ。ハル君と同い年、近くの高校に通ってて近場でバイトを探してたらしい】 椎名が"あそこ"と指挿した先を見て、ハルは首を傾げた。 【覚えてない?いつもあの席に座ってる子】 書き終わるか終わらない時点でパン!とハルは思い出したように手を叩いた。 『あー!あの少しフワッと天然パーマみたいな髪型で、綺麗な顔してる人!背が高くて…』 あ… 勢い余って手の動きが早くなってしまったハルは、固まる椎名を見て慌ててペンに持ち替えた。 【長身で髪がふわふわしたかっこいいお客さん】 「あー!そうそう、その子だよ!」 以前から少し気にはなっていたが、それほど存在感がある訳でもなく、店内に馴染む様な物静かそうな青年が1人いる事を思い出した。 きっと歳は同じくらいか1つ上かな…? 毎週火曜と木曜に来るのか… 毎回、カフェモカを注文して…甘党なんだな。 ハルが働き始めて2週間程経った頃から、その青年を毎週見かけるようになった。来店する度にハルも少し気にはなっていたものの、自分と同じく宿題を片付けたりちょっと本を読みに立ち寄っている人かな?くらいの気持ちだった。 【彼もこの店の雰囲気や味が気に入ってくれたらしくてね、是非君とも一緒に働いてみたいって話してたよ】 【オレとですか?それは嬉しいです】 ただの興味でも素直に嬉しかった。 夕の様に自分と同じく音の無い世界で生きる友人は何人もいたが、聞こえる知り合いがあまりいなかったハルには新鮮な気持ちだ。 【そうと決まれば、早速明日からでもOKしてみようかな?】 椎名の笑顔につられてハルもグッと親指を突き立てて笑った。 ―― 「始めまして、夏樹咲(なつきさく)です」 180cmはありそうな長身に色素の薄い栗色髪、やはり天然パーマなのかフワフワとした柔らかそうな前髪で少し隠れた目が優しく微笑んだ。 ふんわりと笑うその青年にボーっと見惚れてしまったハルは、は!と落ちかけていたホワイトボードを持ち直した。 【桜ハル 高1です。なついさくさん?で合ってますか?宜しくお願いします】 今、確か口の動きはこう言ったか…? 手話も手書きもまだ慣れない相手に申し訳なさそうに質問してみる。 【なつきさく 夏樹咲って書く。  椎名さんからハル君が全く聴こえないって話だけ聞いてる。  オレも高1、この近くの橘高校に通ってる。よろしく!】 気づかなくてごめん、と言うかのように咲は少し慌てた様子で走り書きをした。 2人の様子を笑顔で見守りつつ、ホワイトボードの空いたところに椎名も何か書き足し始めた。 【火曜木曜以外はバスケ部入ってるから、週2だけバイト来るって】 だから火曜と木曜にここへ来てたのか… なるほど、とハルがふに落ちたところで、椎名が向き合う2人の前にずいっとホットカフェラテを差し出した。 『今日は 初めて話す君たちの 交流会に しようか ゆっくり飲んでって』 拙い手話と声を交えつつ、椎名は2人に座るよう促した。 もう店の看板は灯を落し、閉店後の静まり返った店内だった。 初日はお互い挨拶の時間でも取ろうね、と椎名が気を使ってくれたのだ。 【椎名さん、優しい人だね】 ホワイトボードを挟んで2人用のカフェテーブルに座っていると、片付けを続けている椎名の後ろ姿を見ながら咲が書き始めた。 【ハルって呼んでいい?それとも桜? オレの事はさくって呼んで】 ふんわり笑う目元は花が咲くような柔らかい雰囲気。 (だから咲っていうのかな、なんてね…。) 自分でも少女漫画みたいな事を考えることがあるのかとハルも笑みが零れる。 そんな顔をジーっと見つめられたような気がして少し恥ずかしくなった。 【俺もハルで良いよ。  本当に全く聞こえない。だから補聴器もしてないし、呼びかけてくれても気づけない。  だから何か言いたい時は目の前に来るか、肩でも叩いて呼んで】 OK!と咲は右手を挙げると、また何か聞こうと考え始めた。 【バイト、困る事ない?いつも笑顔だから楽しそうだけど】 【オレそんなに笑顔?】 【うん、頑張ってるって無理やりな感じじゃなくて、素敵な笑顔って感じ】 【はずかしー】 あはは、と咲が面白そうに笑う。 そんな咲につられてか少し緊張していたハルの肩から段々と力が抜けた。 【困る事はあるし、きっとお客さんもオレの接客に違和感あると思う。  でも楽しい。  お客さん優しい人ばかりだから、いつも助けられてる、そう思う】 書きながらも本当にそう身に染みているハルだった。 働き始めて2ヶ月は経っただろうか、馴染みのお客さんもハルの対応に慣れて、最近は入店するタイミングで手まで振ってくれる。 【オレはここのバイトが今は1番の生きがいかもしれない】 ふとお客さんの笑顔や目の前のカフェラテの香りに口元が緩む。 そんな様子を、可愛い子犬でも眺めるように見つめていたのは咲だった。 そんな咲の手がおずおずと動き出し、 『オレも頑張る 色々教えて下さい 宜しく』 …え!? 『手話 少し 勉強してる ハルと話がしたくて』 ‟君と話がしたい” 念を押すようにもう一度話した指先がとても綺麗に見えた。 まさか顔見知りとはいえ、話すのが初対面の人からこんな事言われるなんて思わなかった。 自分の世界に足を踏み入れようとしている咲の瞳は真剣だった。 「おっ…おれも…」 自分の胸に手を当てながら、何故だか分からない激しい動悸を抑える気持ちで。 焦って書くより先に、ハルは声を出していた。 ――が… (やばい…きっと変な声だったんだ…) はっとした顔の咲を見た瞬間、喉が詰まるような感覚を覚え、それから俯いてしまった。

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