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No.3:音のない世界へようこそ

「いらしゃいませー、あ!そこの席どうぞ」 ――初めて話したあの日から早2週間 店内にはテキパキと動き回る咲の姿があった。 ハルも咲も手際が良く覚えも早いと椎名に褒められる程、息の合った仕事ぶりだった。 ‟おっ…おれも…” ただ咲は1つ気掛かりなことがあった。 自分がハルと話がしたいという一心で覚えた拙い手話、 それを見て少し顔を紅潮させたハルが発した声… 「俺、嬉しかったんだけど、なんで…」 まさか喋ってくれるなんて思わなくてビックリした顔をしてしまった自分が悪いのか。 その後、ぱっと顔を伏せて黙り込んでしまったハル。 何をどう聞けば良いか分からず、お互い数分間固まっていたら… 【ここ、シフォンケーキも椎名さんが作ってて美味しいんだよ】 とすっかり話題を変えてホワイトボード越しに話しかけてきたハル。 顔色は冴えないものの、他愛もない話が続きその日は何事もなかったような様子で解散した。 そして今日も咲がバイトに入る前と同様に笑顔で接客を続けるハル。 そんな様子を見てため息をついた咲の肩にポン!と誰かの手が触れた。 「わっ!…あ…椎名さん」 「どうしたの~ため息なんかついて。恋煩いでもしてるみたいだよ(笑)」 「ちょ、違いますよ。やめてください(笑)」 咲は自分がどんな顔してたのか恥ずかしくなり、無意識に頬を手で覆った。 「まー元気なら良いんだけど?何か悩み事でもあったら言ってね、僕が出来ることがあれば協力しますから」 椎名は楽しそうに咲くの脇腹を肘で小突いた。 そんな椎名を苦笑しつつ、咲は重い口をゆっくり開いた。 「悩み事という程じゃないんですけど…、気になる事なら…。」 「んー、どんな事?」 「ハル…、椎名さんはハルの声聞いた事あります?」 「うん、バイトさせて欲しいって来てから何度かね。それがどうかしたの?」 ん~…と思案顔の咲を椎名は下から覗き込んだ。 「初めて挨拶した時なんですけど、椎名さんが交流会だって2人で話させてくれた時。」 「あ~色々お話し出来た?」 「はい。その時に、俺もハルと話がしたいって言ったら、ハルが「おれも」って言ってくれたんです。」 「へぇ」 「俺、初めて声聞いたんです。ただ…その後すぐ、なんか態度というか顔色変えちゃって。」 「んー…」 そっか~と椎名も少し考え、ふと思い出したように咲を手招きした。 「ハル君が、言いにくそうだったけど打ち明けてくれたことが1つあった。」 「え、何です?」 「まだ手話を勉強中の頃って言ってたかな…たまたま外出先で話さなきゃいけない事があって、声をかけたんだけど、相手の健聴者になかなか伝わらなくてね。声で話しかける事が怖くなった…自信喪失した事があったって…」 ―今では「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」とか接客はちゃんと自信もって言ってますよ!― そう笑顔で話してくれたハルだったが、その顔は少し切なそうだったと椎名は話した。 「きっと、俺の驚いた顔…何か勘違いさせちゃったんですかね…」 「まー、またお喋り出来る時間はたっぷりあるから、聞いてみたら?」 笑顔の椎名に背中を押され、とりあえず仕事に戻った咲だった。 ―――――――― 「ありあとうございましたー、またおねあいしまーす♪」 今日最後のお客様、優しい常連の方に向けてハルは笑顔でバイバイと手を振って送った。 全てのお客様が帰り、店内の掃除をしようとバックヤードに向かう。 (あ…) そこには何か楽しそうに会話をする椎名と咲がいた。 たしか同じ趣味のお菓子作りで盛り上がることがあると咲から聞いた事があった。 (またそんな話かな) 邪魔しない様に、とハルは先に店内のゴミを集め、外に出た。 店の裏口にはゴミを置いておく小さな物置があり、回収日までそこに置いておく。 バックヤードから直接裏口へのドアがあるのでいつもならそこを通るが、今日は店の入り口から回るように出しに行こうとしたハルだった。 重いゴミを両手に1袋ずつ抱え直し、店の裏手に入ろうとした時だった―― 「おい」 まるで道を塞ぐように、体格の良い男2人がハルの前に入ってきた。 「?」 「お前か?咲ってやつは!」 「…ぁ…。…なんです…か…」 「咲かどうか聞いてんだろーが!すっ呆けてんのか!?」 「ちょ、兄貴まだ咲って奴かどうか分かんねぇって」 1人の男が怒っているのはよーく分かるが、何を言っているのかが全くわからない。 頭に血が上っているのか、あまりに早い口調で話されるのでハルには口が読み取れないのだ。 もう1人の男は何やら落ち着かせようとしてくれてるようだが… (どうしよう…) 「おれ、きこえ…っ!!」 聴こえませんと伝えようとした瞬間、ガッと胸倉を捕まれてしまった。 「や…!」 「逃げんじゃねーぞ!人の女に媚び売りやがって!」 とにかく手を離してもらおうと暴れるハルだが、それが余計男を逆なでしてしまったのか ガッ! 鈍い振動が体に伝わると共に、左頬に激痛が走った。 ―殴られた!? 勢いのまま地面に叩きつけられ、ドサッと尻餅をついた。 血の味が口の中に広がり、そのまま顎まで伝い落ちる。 痛みに耐えているとまたグッと胸倉を捕まれて無理やり立たされる形になった。 周りは薄暗い、裏口に差し掛かったこの場所では人通りも少ない。 (怖い…誰か助けて…) 「聞こえねーのか!人の女にっー」 「何してんだ!!」 急に男たちが振り向くので、ハルもその視線の先を追うと、そこには怖い表情でこちらを見ている咲と椎名が立っていた。 「ハル!?」 目を細めこちらの様子を伺いながら近づいて来た咲がはっとした表情に変わる。 きっとハルの口元に伝う血が目に入ったのだろう。 「あぁ?は…る?」 「ほら!兄貴やっぱり違う奴だったじゃんか!」 ハルの胸倉を掴んだままの男の手を、もう一人の男が慌てて離させる。 そのまま逃げようとする2人を咲と椎名が逃がすまいと追いかけ、店の前で捕まえるとすぐさま警察を呼んだ。 (何がどうなってるんだ…) 心臓がバクバクと激しい音を立てている。 ハルは胸に手を当て、どうにか落ち着かせようとしていた。 『ハル、大丈夫?』 咲がハルの元へ戻ってきて、なんとか頭から絞り出した手話で話しかけるが反応がない。 「はる?」 「!!!」 ハルの肩に手を添えた瞬間、ビクリと体が跳ね上がり、怯えた表情で後ずさった。 「ごめん、驚かせて…手当、しよう?」 カタカタと音がしそうな程に震えたハルの手、まるでケガをした野良犬のようだ。 咲はゆっくりと話しかけ、怖がらせないように手を差し出した。 そんな咲も泣きそうな顔をしていた。 「二人とも、とりあえず中に入ろう。あの人たちは警察に渡したから」 椎名は店の中に入り適当な席にハルと咲を座らせると、バックヤードから救急箱を持って戻って来た。 『ハル君、口の中、見せてくれるかな?』 頬には痛々しい程の赤紫の痣ができ、口の中も酷く切れていた。 『病院、行こうか?』 ハルがコクリと小さく頷いた時ー 「今晩は、警察署から事情を聞きに来ました、酒井(さかい)と申します。」 店の入り口から長身の制服を来た酒井と名乗る男性と、スーツ姿の女性が入って来た。 「こちらは通訳者の金井(かねい)です。」 酒井という警察官に紹介されると、金井はハルに向かい早速手話で通訳を始めた。 「怪我をしているところ申し訳ないんですが、少しだけ話が出来るかな?被害を受けた子が聾者と聞いて、通訳を連れて来ました」 ハルは酒井と金井を見てまた小さく頷く。 「現場は店の裏口付近、君は何をしていたのかな?」 『ゴミ出しです…』 「君を襲った男性とは知り合い?」 『いえ、知りません…何を言われたのかも分かりませんでした…』 「そうか…」 酒井はメモを取りながら通訳者の話をうんうんと聞いている。 「実は、彼らは咲という男性に会いに来たそうなんだが」 「え…俺ですか?」 「あぁ、君の方が咲君ですか」 酒井はなるほど…と何か理解出来た様子で話し始めた。 「彼らが言うには、彼女がよくこの喫茶店に寄り、咲という男性に惚れてしまったと…。 咲君が何か彼女に対して誘惑的な事をしたんじゃないか?と話に来たそうだ。」 「それって…誰か知りませんけどっ、ハルは無関係じゃないですか!」 「そういう事だ。きっとハル君は店から出てきたところで声を掛けられたけど、なかなか話しが通じず、巻き込まれたんじゃないかと。」 ハルが一通り金井の通訳を見て『そういう事だったのか…』とポツリ。 『突然目の前に男の人達が来て、怒られているのは分かったんですが、何を聞かれているのか分からなかったんです。きっと俺に咲かどうか聞いてたんだ…』 「彼らも君が聴こえないとは知らなかったようで、感情のまま咲君と勘違いして手を出してしまったんだろうな。」 『でも…咲がこんな目に合わなくて良かった…』 「でも…咲がこんな目に合わなくて…良かった」 頬に手を当て俯くハル。 金井の口からハルの言葉を聞き、咲の心臓がズシリと重くなった。 「ごめん…俺のせいでこんな目にあったのに…ごめん!」 「咲君…」 咲が振り絞った声は俯いてしまったハルには届いていないようだった――

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