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No.9 :曇りのち晴れのち

シュッ 靴紐を結び直し、黒のリュックを背負って玄関ドアを開けようと一歩進んだところ―― 『忘れ物!』 肩を叩かれ振り返ると…そこには厳しい顔で手に補聴器を載せている隼人が立っていた。 ‟バレた…” 故意に忘れていた物。 あの日修理してもらい返ってきた補聴器だ。 ハルは全く聴こえない、それなのに補聴器を付けるというのが嫌だった。 分かっている、それが“周りに聴こえないという事を伝える為”“身を守る為”だという事を。 トラブルや事故に巻き込まれないで欲しい…、そう願い母と隼人が付けるよう言ってきたのだ。そもそも、その発端があのバイト先での事件だったからハルも拒否出来ないでいた。 “でも…付けても聴こえないのにあえて付けるのは嫌だ…” それが顔に出たようで、隼人も苦笑している。 『心配なんだよ、俺も母さんも』 『うん…、分かってる。咲に会うまではちゃんと付けるよ、それで良い?』 『あぁ、良いよ。友達が居ればまだ安心出来る。ハルが独りの時は気をつけて欲しいからさ。』 自分でも思う、隼人は弟に甘いと。 隼人から手早く補聴器を受け取って付けると、バイバイと手を振って玄関を出た。 ―――――― 電車のアナウンス、改札機の開閉音、人々が行き交う足音、息遣い… 人通りの多い喧騒の中、咲は改札から離れて広告が流れ続ける電光掲示板の前に立っていた。 (今までの待ち合わせで1番ドキドキするかも…) 蓮に合わせてもらった服を直しながら、スマホの時間を見る。 待ち合わせまで後5分… あまり早く来すぎても恥ずかしいよな、と思いながらも20分前にはこの場に立っていた咲だ。 トントン 急に後ろから肩を叩かれてビクッとしながら振り返ると、照れ笑いのハルが立っていた。 白のインナーに厚手のニットカーディガンを羽織り、下はGパンといったラフなスタイル。 いつもバイト先では学校の制服かsproutの白シャツに黒のエプロンスタイルしか見たことがなかったせいか、新鮮な感覚についハルをまじまじと見てしまっていた。 『…変?この服…』 『違う違う違う!いつもと雰囲気が変わって可愛いな〜と、いや、似合ってるよ!;』 『ありがとう(笑)咲もそのシャツカッコいいね』 これ何処のー?とハルが手を伸ばすのは蓮に選んでもらったチェック柄のシャツ。 咲もあまり飾りすぎないように、チェック柄のシャツにニットのパーカー、Gパンでラフな雰囲気のコーディネートにしてもらったのだ。 『…で、どこから行こうか?』 スマホで周辺店舗を検索しながらハルがキョロキョロと周りを見る。 その姿が、なんだか楽し気な小動物のようで‟可愛い”しか頭に出てこない咲だった。 『ハルが香水とか平気なら、ここ行きたいと思ってるんだけど…』 『…ふーん、こんな店あるんだ?初めて見た』 同じようにスマホで周辺店舗を検索し、10分くらい歩けば着くだろう場所に気になっていた店があることに気づいた咲は早速その店舗のホームページをハルに見せた。 『それじゃ、行ってみよう♪』 『ふふ、咲って子供みたいだな』 『そう?』 ガッツポーズのように右手を挙げて歩き出した咲の隣で軽く吹き出すハル。 楽しみでウキウキする気持ちを抑えてるつもりだったが、咲はちょっと恥ずかしくなり別の話題を探した。 『これ…』 『あ!…隼人に、外出中は危ないから付けろって言われて;』 慌てて外そうとしたのは耳に掛けてある紺色の補聴器だった。 「っ!」 ふと、補聴器を外そうとした自分の手に咲の手が重なる。 『ごめん、ビックリした?…この色、綺麗だな。こういう色の初めて見た』 『これは…、俺が好きな色だから付けてくれるだろうって、隼人が選んでくれたんだ』 『隼人ってお兄さんだろ、いいなー』 『な、何が?』 『可愛がってくれる兄貴がいて(笑)俺一人っ子だから、そういうの無くて』 『…そうかな、一人の方が気楽な時もあって良いなって思う』 『無いもの強請りだな』 『うん(笑)』 咲に触られた方の手が熱い… (ビックリした…) 補聴器はそのままにドキドキしながらハルは手を引っ込めた。 ―― (春…みたいだ…) そこはとても現実離れしたような不思議な空間だった。 全体的に白とナチュラルブラウンを基調とした店の外観。 入り口の手前に【KOU-香-】と書かれたイーゼルがポツンと置いてあるだけ。 まさに“知る人だけが来る店”といった感じ。 カチャッと軽い音を立てて開いた店のドア。 一歩踏み入れた瞬間にブワッ!と風に舞う桜の花びらを浴びたような清々しく甘い香りがハルの体を包み込んだ。 『咲…ここ、素敵だ…』 何があるのかという期待と、もう良いものに出逢ったという喜びが混じったドキドキ感。 『気に入ってくれたみたいで良かった』 まだ店内を回ってもないのに、はわ〜と頬を紅潮させているハル。 そこからヒシヒシと喜びが伝わり咲も顔がニヤけた。 『ハル、いつも香水付けてるでしょ。何かお気に入りが見つかるかなって思ってさ』 『どうして…』 『勿論、凄く気になる程じゃないよ!ただ毎回会うとその日その日で違う香りがハルからして…その…好きなのかなって』 俺も香水見てみたくて…と照れたように言う咲。 普段何気なく音楽を楽しむように、ハルは香りを楽しんでいたのだ。 5種類程度の香水だが、その日の気分によって毎日チョイスしていた。 (咲に会う日は何故か大体甘い香りになる…) 最近そんな事をふと思いながら、今日だってスパイシーな中にバニラの甘さが香る香水をつけていた。 『ありがとう、俺こういうの、大好き』 ふわっとした笑顔と店内の香りに咲は一瞬クラッとした。 (これやばい…重症だ…) はぁ〜と手で顔を覆う咲に(?)と当の本人は全く気づかない様子だ。 ナチュラルブラウンのカウンターが壁沿いにハルと咲をぐるりと囲うようにあり、その上にこげ茶色の遮光瓶に入った商品と、そのサンプルだろうか更に小さい透明な小瓶が対になるよう並んでいた。 『あ〜これが桜のような香りだったんだ…。こっちはサボン、良い香りー…』 ひとつひとつサンプル瓶を手に取りクンクンと香っていく。 「ハル…可愛…ぁ」 そんな小動物のような仕草にふと声が漏れてしまい、聞こえてないと知りつつも口元をつい隠してしまう咲だった。 「sunsetとrainsoundですね。容器代が入りますので3560円です。」 散々色んな香りを試し、うんうん唸って頭を抱えながら悩んだ末…ハルは2種類の香水を手にレジへ向かった。 ここは空瓶からサイズを選ぶ事が出来、香水をその瓶へ詰めてもらう事も出来るらしい。 既に詰められた1番小さなサイズが店内には並んでおり、気に入ればまたサイズアップした瓶と共にどうぞ買いに来て下さいと店員さんからも教えてもらった。 レジスターに表示された金額をサイフから取り出し支払いが終わると、ハルは満足げに隣の咲を見た。 『ここ、最高。今日はお試しサイズ買ってみたから、次はもっとお気に入り見つけに来たいな♪』 『もう次来るつもりなんだ?本当好きなんだね、来てよかった』 キラキラと目を輝かせるハルに咲はプッと吹き出した。 【KOU-香-】の店主さんはとても優しく、クシャッと目を細めた笑顔が素敵な男性だった。 ハルの気に入り具合に喜び、“この辺りでランチするならここがお勧めだよ”と穴場まで教えてくれたのだった。 『少し昼には早いから、もう1箇所くらい買い物してから行こうか?』 『そうだね、次は咲の行きたい所へ行こう!』 それなら…と咲は気になっていた店を目指して歩き出した。

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