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11、溶ける音色と
久々の休日の外出ということもあってか、彩人と壱成はもう少し飲んでから帰るという。繁華街の駅まで送ってもらった後、空と累は二人で家路につくことになった。
もうすぐ九月になるとはいえ、湿気を孕んだ夜の空気だ。累にとっては慣れない湿度だろうか……と、累を見上てみた。すると累は、唇に機嫌のよさそうな微笑みを浮かべて、暗くなった空を見上げている。
「累、疲れてない? 大丈夫?」
「ん? 平気だよ、楽しかったね。ご飯も美味しかったし、ちょっと眠くなってきちゃったな」
眠気のせいだろうか、そうして微笑む累の表情は、どこか幼い頃を彷彿とさせる無防備さだ。さっきまで兄たちを前に、予想以上の社交性を披露していた累に感心していたこともあって、そのギャップにうっかりドキリとさせられてしまう。
「空……手、繋ぎたい」
「……えっ? 手?」
「うん。……ダメかな」
「だ……ダメじゃないけど」
「じゃあ、ね?」
累は天使のような微笑みを浮かべて、スッと空に手を差し出してきた。眠いから甘えたい気分なのかな……などと考えながら、空はおずおずとその手をつかむ。すると、思った以上に強い力で、きゅっと握り直された。
――……累、手おっきいな。
大人の男の手だ、と空は思った。空だって十五になり、手や体つきも男らしくなったと自負しているのに、こうして改めて手と手を繋いでみると、累との体格差を実感してしまう。
累が歩くたび、さらりとした金髪が風に揺れる。涼しげに整った横顔をきらきらと彩る金色は、夜の薄闇の中でもひときわ華やかだ。
――くうっ……イケメンオーラがすごい。兄ちゃんや壱成で見慣れてるはずなのになぁ……。
のんびりそんなことを考えていると、累の指がするりと空のそれに絡まり、いつの間にやら恋人繋ぎになっている。しかも、親指で微かに空の肌を撫でてくるため、妙なくすぐったさが落ち着かない。
「空の手、あったかいな。昔と変わらないね」
「そうかなぁ?」
「うん。触ってると、気持ちいい」
「そ、そう……」
幼さを覗かせながらの微笑みは途方もなく甘くて、かわいいやら照れ臭いやらで、どういう顔をしていたら良いのか分からなくなってしまう。顔の熱さをごまかすようにうつむくと、累が隣でくすりと笑った。
手を繋いで、ゆっくりとした歩調でなんとなく無言で歩くうち、すっかり駅前の喧騒が遠ざかっていた。静かな川沿いの道をまっすぐ進み、橋のたもとを曲がれば、空や累の住まいがある住宅地に出る。
ふと、累の手に力がこもるのを感じて、空は何気なく累を見上げた。すると、累の視線はすでにこちらを向いている。夜の闇の中にあっても、なおいっそうきらめくように美しい累の瞳に見つめられ、空の心臓がどきりと跳ねた。
「ねぇ、空……今からうちにこない?」
「えっ……?」
――い、今から!? 今から累んち行って、な、なに、するの……?
どくん、どくん……と鼓動が早くなっていくのが分かる。高比良家のことだ、きっとまた、両親の帰宅は遅いのだろう。……が、この間、空の制止を振り切るように激しく求められた時の記憶が身体に蘇り、空はごくりと息を飲んだ。
それに、累はちょっと伏せ目がちで、そこはかとなく恥ずかしそうな雰囲気を醸している。やばいこれはなにかエッチなことをされる予感がする……と空がドキドキしながら身構えていると、累は小さな声でこう言った。
「僕のヴァイオリン、聴いてくれないかな……」
「…………えっ? あ、ヴァイ、オリン……?」
「うん、ちょっとでいいんだ。昔みたいに、感想聞かせて欲しいなって……」
「えっあ、あ〜〜〜!! ヴァイオリン! 聴く! 聴かせて!」
がっかりするやらホッとするやらで、たらたらと変な汗が背中を伝う。嬉しそうな累の笑顔に引きつった笑みを返しながら、いやガッカリって何だよとセルフツッコミをしつつ、空は「いやぁ、ひ、ひさしぶりだなぁ〜〜」と言った。
どうやら自分にも、人並みに煩悩が芽生えてきたのかもしれない……と空は思った。
+
「へぇ、これが防音室かぁ。初めて入ったぁ〜」
累の自宅に到着するまでに、なんとか気持ちを立て直した空である。二度目の高比良邸は相変わらずきれいに片付けられていて、生活感がまるでない。
二階にある防音室の中には、一台のグランドピアノが置かれている。空は横長のピアノ椅子に座って、累の支度を待っているところだ。目の前には、触れるのさえ恐ろしくなるほどに艶やかなグランドピアノ。空は極力何にも触らないようにしながら、白い部屋の中を見回した。
天井近くにすりガラスの窓があり、昼間はあそこから陽光が差し込むのだろう。空調の効いた部屋の中は、快適な温度と湿度に整えられている。
床も一見普通のフローリングのようだが、スリッパを履いていても微かにクッション性を感じる。物珍しげに空が床をふみふみしていると、ヴァイオリンケースを手にした累が部屋に入って来て、扉を閉めた。
――……わ、なんか……すでにオーラが……。
ただの黒いTシャツにジーパンという部屋着姿だが、ヴァイオリンを手にそこに立っているだけで、累の周囲には形容し難い迫力のようなものが漂っているような気がする。だが、譜面台に楽譜を置きつつ、累は空を見て少し照れ臭そうに微笑んだ。
「……なんか、照れるな。自分で来てもらっておいて何だけど」
「そ、そう? なんか俺、ドキドキしてきちゃったけど」
「ドキドキ?」
「ヴァイオリン持ってる累って、なんかすごく……大人っぽいっていうか、別人みたいに見える。累の弾くヴァイオリンを、俺なんかが独り占めしていいのかな」
空がどぎまぎしながらそう言うと、累は苦笑して首を振る。
そして、すっと流れるような動きでヴァイオリンを構えながら、視線を空の方へ向け、こう言った。
「独り占めして。僕はいつだって、空のためだけにヴァイオリンを弾いてる。どこでどんなふうに弾いていたって、僕の音色は空だけのものだ」
「へ……」
弓を構え、累は一瞬目を閉じた。その瞬間、防音室の空気がにわかに変化したような気がする。
だがその直後、空を包み込んだのは緊張感ではなく、柔らかく頬を撫でるような優しい音色だった。ゆったりと身体を揺らしながら弓を引くたび、累の全身から音楽が生み出される。
聞き覚えのあるメロディ、これは確か、パッフェルベルの『カノン』という曲だ。小さい頃、何度か累が弾いて聴かせてくれたことがあった。『おれ、これすきだなぁ』と空が言うと、累はヴァイオリンを引きながら空を見て微笑み、『そうかなぁって思った』と言って――その頃の記憶が蘇る。
学校の音楽の授業で耳にした時、聞き馴染んだ音色にハッとしたこともある。その頃、すでに累は遠い空の向こうにいたけれど、視聴覚室のスピーカーから流れるオーケストラを聴き、累が懐かしくなったこともあった。
――懐かしい……。それに、昔より音がしなやかっていうか……空気に溶けるみたいに、綺麗な音だ。
素人は音階を辿るだけでも難しいというが、累は子どもの頃から、正しく音を奏でることができた。音楽といえば、テレビの子供向け番組で聴くものしか知らない空のために、累が耳で音色を聴き、その場で弾いてくれたこともあった。それはまるで魔法のようで、『るい、すごいねぇ〜!』と言って何度も拍手をしたものだった。
だが、十五歳になった累が奏でるそれは、ただ『上手い』といって完結できるものではない。その場の空気の色を変えてしまうかのように広がりのある音色が、累の全身から放たれている。音を生み出すのはヴァイオリンであるはずなのに、弦を撫でる累の白い指、メロディに合わせてしなやかに揺れる身体の全てが楽器のようで、豊かな『音楽』が溢れ出す。ここまで技術を磨き上げるまで、累はどれほどの努力を重ねたのだろう。
――なんて、きれいなんだろう……。
この素晴らしい音色は、全て空のために奏でられるものだと累は言った。その言葉を表すように、主旋律を清らかに奏でる高音が空の肌を、心さえも震わせる。あまりにも想いのこもったヴァイオリンの響きに、気づけば空は、涙を流していた。
静かでありながらも、情緒のこもった最後の音。自分の中に染み込むように終わってゆく、美しい『カノン』。身動ぎの音や、自らの呼吸音で余韻をかき消してしまうのが惜しくて、空はしばらく、息をすることさえできなかった。
す……と弓を外して、累が姿勢を解く。小さく息を吐く累が、空の涙に気づいて目を見張った。
「空……?」
「あ、あの……すごく、すごくきれいだった……俺、なんか、感動しちゃって……」
わずかにしゃくり上げながら空が必死にそう伝えると、累はヴァイオリンを傍のテーブルに置き、歩み寄って空を強く抱きしめた。
「ありがとう、空」
「っ……すごい、すごいよ累。子どもの頃もうまかったけど、今は……っ、全然ちがう。すごい、俺、うまく言えないけど……っ……」
心の奥底から深く揺さぶられるようなこの感動を表現するだけの言葉を、空は持っていない。それが口惜しくて、もどかしくて、ぽろぽろと涙が溢れ続ける。
だが累は空をギュッと抱きしめたまま、「ありがとう、嬉しいよ」と、いつものように優しい言葉をかけてくれるのだ。
「こんなすごい音楽を……俺のためになんて、そんな、なんかもう……だめだよそんなの、っ……ううっ……」
「そんなこと言わないで。……空、こっちを見て?」
両頬を掌で包み込まれながら、ゆっくりと上を向かされる。涙に濡れた空の頬を親指で拭いながら、累は碧い瞳を細めて愛おしげに微笑んだ。
そしてそっと、唇が重なる。
二度目ということもあって、空は累のキスを拒もうとはしなかった。むしろ自ら唇を開いて、累のキスを積極的に受け入れる。累が微かに息を飲み、さらに深く粘膜が触れ合う。微かにリップ音を響かせながら、累はより深く、空の中へと舌を忍ばせてきた。
「ん、っ……るい……はぁっ……」
ふらつきそうになる身体を支えるために、とっさに累のシャツを掴む。すると累は横長のピアノ椅子に腰を下ろして空を抱き上げ、自らの膝の上に跨らせた。
「空……今日は、やめろって言わないの?」
「い、い……いわない」
「本当? じゃあ、もっとキスしてていい?」
「うん……いいよ」
こくり、と頷くや否や、累の腕に力がこもり、腰を強く抱き寄せられる。気づけば、空の方が頭の位置がやや上だ。潤んで揺らめく累の瞳に見惚れていると、そっとうなじを引き寄せられて、また唇が重なった。
キスをしながら、累は空のシャツの中に手を這わせて来た。裸の背中を指で撫でられ、くすぐったさと気持ちよさのないまぜになった感覚に、腰が震える。拙いながらも累の舌に舌を絡めていたけれど、肌に触れられると思わず息が漏れてしまった。
「ぁっ……ん、るい」
「ん……?」
「まってよ……こんなキスされてたら、俺、あのっ」
――どうしよ、こんなの、勃っちゃうじゃん……っ……。
累のキスは大人びていて、気持ちが良くて、さっきからじんじんと股間のあたりが疼いてしまっている。以前押し倒された時からずっと、累のキスを思い出すたびに身体が熱くなってしまうようになっていた。そこへ来て、あの素晴らしい演奏のあとの、この色っぽいディープキス。空の戸惑いとは裏腹に、身体のほうはどんどん火照りを増していて、恥ずかしさのあまり顔が真っ赤になってしまう。
「……あっ……!」
だが、ぐり……と累が腹を押し付けてくるものだから、さらに身体が密着して、硬く昂ったそれがバレてしまった。慌てて身を引こうとしたけれど、累は空の腰から手を離してくれない。
「あ、あのっ……! 俺、あの、ごめん、」
「嬉しいな。僕のキスで、こうなったの?」
「っ…………そ、そりゃ、だって」
「ハァ……嬉しい。良かった……空も、僕とこういうことして、興奮してくれるんだ」
「あっ……」
累が微かに腰を揺すると、ジーパンの中で膨れ上がった空の昂りが擦れ、甘ったるい声が漏れてしまう。空が咄嗟に口を覆うと、累は目元を微かに赤く染め、色香の滲む眼差しで空を見上げた。
「かわいい」
「累、どうしよ、俺……こんな」
「確かに、ちょっと苦しそうだね。でも、大丈夫」
するりと累が身を引くと、空は再びピアノ椅子に腰を下ろす格好になった。そしてどういうわけか、累は椅子の前に膝をつき、空のジーパンの前をくつろげ始めていて……。
「待った!! ……な、なに、なにして……っ!?」
「こんなになってちゃ、帰れないだろ。口で、させて?」
「へっ……!? そ、そんな、口でって、なにそれ、そんなっ……」
抵抗しようにも、キスですっかり脱力してしまった空の身体は、素早く動いてくれなかった。そんな中、累は器用にジッパーを下ろしてゆき、芯をもって嵩を増した空のそれを、指先でつうとなぞった。
「ぁっ、あ……!」
「口でするだけ、それ以上は何もしないから。……させて、空」
「そ、そんなことしなくても、俺っ……自分で」
「自分で? ここでして見せてくれるの?」
「んぐっ……。そ、そんなのできるわけないじゃん!!」
「じゃあ、僕にやらせて? 初めてだから、うまくできないかもしれないけど」
「うっ……」
ついさっき神がかった演奏をし終えたばかりの美形が、頬を火照らせ、目を潤ませながら求めてくる――これまで平穏に暮らして来た自分の身に、まさかこんなことが起こるとはと、空の脳内は大パニックだ。
だが、空の無言を肯定と捉えたのか、累は少し唇を吊り上げて膝立ちになった。そして、空の下着に指をかけて……。
「ぁっ……るい」
「僕の口に出していいから。……ね?」
形のいい唇から赤い舌を覗かせて、累は婉然と微笑んだ。
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