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──たっぷりと微睡んでいた意識を、澄はゆっくりと浮上させた。どうやら随分と眠っていたらしい。まだ少し働いていない頭で、これまでの記憶を手繰り寄せる。あれから一晩ここで休ませてもらってから、今朝仕事に行こうとしたところを彼に止められた。仕方がないのでしばらくは大人しくしていたのだが、そのうち李遠が部屋の鍵をかけずに出かけていることに気がついた。 逃げ出そうと思えばいくらでも部屋から出られる状況にあることは理解したものの、何故だかそういった気分にはなれず。むしろこの部屋にもっと居たいとさえ思ってしまった結果が今までの熟睡か、と澄は苦笑する。 と、玄関の方から足音が聞こえた。それは真っ直ぐにこちらへと向かってきており、件の人物が顔をのぞかせる。 「あっよかった…まだいた」 学園から帰ってきた李遠は、ベッドから上体を起こしている澄を見て目元を和らげた。何故だかその表情を直視できず、思わず視線を逸らす。 「スポーツドリンク、買ってきたんだ。飲むかな?」 特に気にした風もなくそう聞かれ、頷いてペットボトルを受け取る。一口飲んでいる間に傍らに腰かけた李遠を認めてから、口を開いた。 「…学園、どんな感じだった」 学園にとうとう足を踏み入れた彼は、現状を見て何を感じたのだろうか。少し眉を下げて、李遠は答える。 「うーん…君が言っていたように、確かに大変なことにはなっているみたいだね」 「そう、か…やはり放置していても良い方向には進まないな。明日にでも執務を再開して、あと転校生に対する策も講じねぇと…、っ」 ふと、あたたかな体温に手を包まれる。顔を上げれば、李遠の真っ直ぐなまなざしとかち合った。 「大丈夫、きみはひとりじゃない」 「え…」 「僕がいる」 ああ、なぜ分かってしまうのだろうか。澄の胸が締めつけられるように痛んだ。 転校生による被害をどうにか抑えねばといったことくらいはさすがに考えているものの、昨夜も言ったように澄は生徒会役員たちに対する恨み言などは一つもない。ただこういったことを考えていると、どうしたってまた寂しさは襲ってくるのだ。まだ戻ってこない彼らを待ち続ける限り、澄が生徒会で一人なのは変わらない。そんな時に現れた彼。 今までずっと慰めの言葉が欲しいわけではなかった。けれど彼の言葉はやけにすぅっと胸にしみていって、気づけば澄の心を溶かしていた。 「本当に、どうしてお前は」 どうしてお前はこうも俺を惹きつけるのか。 言葉の続きを察しているのかいないのか、李遠は慈しむようにただ澄を見つめていた。 ──翌日、快復した体で学園へと登校してきた澄は、今までとは明らかにちがうものをそこから感じ取っていた。転校生が来てからというもの、学園には不穏な空気が漂い、生徒たちは怯えや苛立ちをその顔に浮かべて日々を過ごしていた。けれども今朝はどうだろう、これまでと違って学園の雰囲気は随分と和らいだものになっているではないか。 明るく挨拶を交わし、談笑する生徒の姿は何ら変わらない『日常』の光景である。しかしそれは久しく訪れていなかった『日常』だ。澄は胸がいっぱいになりながらも、校舎へと足を踏み入れた。 澄の姿を認めた途端、周りの生徒たちがわっとこちらへ近寄ってきた。 「会長様!お加減のほうはいかがですか…?」 「ぼくたち、会長様がお倒れになったと聞いてから気が気でなくて…!」 「ふぇ、で、でも元気になってよかったですぅ~~!!」 一人が泣いたことで残りの二人もわんわんと泣き始めたのを皮切りに、他の生徒たちからも澄が快復したことへの喜びの声があがる。その一人一人に目を向けながら、澄は感謝の意を述べていった。 皆から感じる温かい想いに、自分は一人ではなかったのだと気づかされる。それは以前から変わりない事実ではあったが、こんなにも隔てなく生徒たちが話しかけてくれることは今までほとんどなかった。それを実感できるようになったのはやはり学園の雰囲気の変化も関係しているだろう。そうした変化をもたらしてくれた人物はきっと一人しかいない。 生徒たちと別れて教室に向かう道すがら、澄は『混血の吸血鬼』の存在をここでも感じていた。 その日の放課後、澄はある扉の前に立っていた。そこには『生徒相談室』との看板が提げてある。少し緊張した面持ちで扉をノックすると、返事と共に扉が開いた。 「ごめんね、まだ開始時間じゃ…って、あれ?祢屋くん?」 「よ、よう」 「どうしたの?とりあえず入りなさい」 「…いいのか?」 「もちろん」 促されるままに中へ入ると、相談室は想像よりも広い造りをしていた。応接セットに腰かけると、李遠は奥の給湯スペースに姿を消す。戻ってきた彼は急須と湯呑みを乗せた盆を持ち、澄の向かい側に座った。 「お茶でもどうぞ」 「ありがとう」 「それで、相談室を利用しに来た…ってわけではないんだよね」 差し出されたお茶で喉を潤してから、澄は気恥ずかしそうに話を切り出した。 「ああ、その…生徒たちから相談室の話を聞いた。俺のいない間、いろいろとしてくれたらしいな。礼を言う」 「なんだ、そんなことか。僕は大したことはしていないよ。相談室は前からやっていたものだし、いつもと同じことをしただけ」 「そうなのか?俺は学生生活面に関しては疎くてな…。ここの存在も何となく知っている程度だったから、お前が担当していることも初めて知った。初対面の時は体調不良で頭が回っていなくて気づかなかったが、リオンは保健委員長だよな」 「そうそう、その流れでね。保健医が頼んできてからずっとやってるんだ」 何てことはないというように、李遠は変わらず穏やかな表情で澄を見つめる。その軽い調子とは裏腹に、彼がおこなっていることがどれほど学園にとって大きな役割を果たしているかは、澄が既に身をもって実感していることだ。 「…昨日言ってくれた言葉」 「ん?」 「俺はひとりじゃない、ってやつ…よく、分かった。学園の雰囲気は以前からは信じられないほど穏やかになっていて…さっきも言ったが、お前が尽力してくれたことがよく分かったよ。…なぁリオン。会って間もない俺のために、お前はなぜそこまでしてくれる」 澄の話を聞いていた李遠は、突然自分へと疑問を投げかけられて、きょとりと瞬いたのちに、顎に手を当てた。そして、さほど時間を空けずにあっけらかんと答えた。 「知り合うまでの時間なんて関係ないさ。君が今までずっとがんばっていたから、理由はそれに尽きる」 その言葉に、今度は澄が目を瞬かせることとなった。至極簡潔なその理由を受け止めてみると、何だか笑いが込み上げてくる。 「ふっ…だめだな、これは」 随分と柔らかな視線が、李遠を捉えた。 「お前の傍は、どうも居心地が良すぎる」 「そうかな?…うん、でも。僕はいつまでも居てもらってもかまわないよ」 正面に座る澄の頬に、李遠は手を滑らせる。 「僕も。君の傍が、とても居心地が良いからね」 すり、と李遠の手に頬を寄せる。とても穏やかで、暖かで、それでいてほのかに甘いひとときだった。

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