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「はぁーもう、えらく遠いところまで来たもんだなぁ」
「なッ…お前は!!」
疲れを見せるかのように、肩をぐるぐると回しながら一つ息をつく男。現れたのは、紛れもなく李遠だった。
「どうしてここがっ…確かに結界を張ったはずなのに!!」
「あのねぇ。君くらいの、それもハーフが張った結界なんて俺にとっちゃ紙切れみたいなものだよ?すぐ見つけられるし壊せるさ。ねぇ…インキュバスの転校生くん?」
「!!」
インキュバス。夢の中に現れて性交を行うとされる、下級の悪魔のことだ。彼らは自分と性交させるため、襲った人間の理想の人物の幻覚を見せたり、自分自身の虜にするために『魅了(チャーム)』という妖術を使うこともある。
そのインキュバスと人間のハーフが転校生の正体であると、李遠は邂逅の時点ですぐに見破っていた。
転校生は元々わがままで自己愛の強いきらいがあったが、学園に入り上玉の獲物を次々と虜にしたことで、その傾向は更に強まっていた。そんな中で極上の獲物である澄に出会ったものの、なかなか手に入らないことに痺れを切らして、今回の事件が起こったのだ。
歯ぎしりをして焦りを顔に出す転校生とは反対に、李遠は飄々とこちらに近づいてくる。
「まぁ君の正体はどっちでもいいんだけれども。とりあえず祢屋くんを返して、もらおう…か…」
着実に進めていた足が思わず止まる。転校生の下、組み敷かれている澄の姿はボロボロだった。
引き裂かれた制服。ちらほらと見受けられるアザ。見ているだけでも痛々しい噛み跡。
「…祢屋、くん?」
「りおん、」
たすけて、と動く唇と、普段は意志の強さを伝えてくる瞳から流れる涙を見た瞬間に、李遠は己の中で黒いものが渦巻くのを感じた。
室内であるはずなのに風がどこからともなく吹き始め、教室中の窓ガラスがガタガタと音を立てて揺れる。先ほどまで晴れ渡っていたはずの空には暗雲が立ち込めてきた。
突然の事態に転校生が顔を上げると、明らかに李遠の纏う空気が先ほどとは変わっていた。吹き荒ぶ風に靡く黒髪から、リボンがほどけていき、俯いた顔はあまり表情が窺えない。
訝しんだ次にはもう、転校生の体は教室の後方へ吹き飛んでいた。
「かはッ…」
「半妖の淫魔風情がようもここまでやってくれたな」
「!?ぐっ…!」
何が起こったのか理解する間もなく目の前に李遠が迫っていた。首を掴まれ宙に持ち上げられた転校生は、為すすべもなく足をばたつかせる。
「はな、せッ!」
「私はな、淫魔や夢魔のやることが悪いこととは思わんよ。奴らとて生きるために身につけた術なのだからな。しかし、お前のような奴だけは見過ごせんのだ」
「ぐっ…」
「生きるためなどではない。己の欲に溺れ、その欲を満たすためだけに誰も彼もを魅了し、挙げ句の果てには何の罪も無い者に無体を働こうとするその下卑た考え。お前を産み落とした一族が哀れでならぬ」
限界まで締め上げられた首に転校生がもがくのを諦めそうになったころを見計らい、その体を床に投げ捨てる。咳き込む少年の顎を砕きそうなほど強く掴むと、李遠は常とは違う、怪しく光る瞳で睨みつけた。
「私の愛し子を傷つけた罪は重いぞ。くびり殺しても足りぬくらいだ」
「ヒッ…」
「だがまぁ…」
ちらりと転校生から視線を外すと、澄が不安そうにこちらを見ている。その姿を見て、李遠は深いため息をついた。
「…そのようなことをしても我が愛し子は喜ばぬようだからな。ならば…よいか、“二度と祢屋澄に近づくな”」
「ぁ…は、い…」
「うむ、よし」
掴んだ顎から手を離して立ち上がると、李遠は冷えた瞳で微笑んだ。
「ならばここから疾 く往 ね」
また小さな悲鳴をあげて、転校生は一目散にその場を後にした。
正体を見破ったり、結界を壊したり出来たことからも分かるが、転校生と比べれば李遠の力は圧倒的に勝る。その強者からかけられた『言霊』は強い呪術性を持つため、哀れにも欲に溺れた少年は“二度と祢屋澄に近づく”ことはないであろう。
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