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「まったく…ほんに愚かな子どもだことよ」
「…リオン?」
「うん?」
次にこちらを振り向いた時にはもう、今起きたことが夢だったのではないかと思えるほどに李遠の様子はいつも通りになっていた。
着ていたブレザーをかぶせてから、澄の背中と膝裏に腕をまわす。
「わっ」
「一度場所を移そう。しっかりつかまっていて」
一陣の風が吹いて思わず目を瞬かせた間に、景色は古びた旧校舎から相談室へと変わっていた。ゆっくりと澄の身体をソファに下ろし、給湯スペースに向かった李遠は思ったよりも早くこちらに戻ってきた。
「いつもの日本茶だけど…飲める?」
「あぁ、ありがとう」
冷えきった身体に熱が行き渡るのを感じる。ほう、と安堵したように息を吐き出す澄を見て、冷えていたのは身体だけではなかったことを李遠は痛ましく思った。
「リオン、助けてくれてありがとう。本当に、お前が来てくれてよかった」
「…うん」
「…ところで、あの。さっきかなり雰囲気が違って見えたんだが、それは…」
「あっあれはー…何というか…ええと、僕がヴァンパイアのハーフなのは知ってるよね?」
「ああ」
「元々ヴァンパイアって生き物は今日澄が見た僕のような、ああいう奴らが多いんだ。特に、種族の血が濃いほど。僕もけっこう種族の血は濃い方なんだけど、元来の気性とヴァンパイアとしての気性がどうにも合わなくてね。そのうち身体が順応しちゃって、ヴァンパイアの本能は魔力を一定以上放出させた時しか現れなくなったんだ」
「それが今回、と」
「そういうことだね。感情が昂ると無意識にああなっちゃうみたいで…恥ずかしいなぁ…」
珍しく恥じらいを見せる李遠に思わず笑いそうになった澄だが、笑うと同時に腹部へと痛みが走り、失敗に終わった。李遠はそれに目ざとく気づき、彼の足元に跪くように腰を下ろすと、極力柔らかい声音で言葉を紡ぐ。
「祢屋くん、僕に触られるのは平気?」
「え、ああ…?」
「じゃあ舐めるのも平気かな。ちょっと失礼」
「は、舐めっ!?っ、ぅ…」
腹部の噛み跡を癒すように、李遠の舌がゆっくりと這う。ざらりとした感触は転校生に襲われた時にも体感したが、あの時の嫌悪感や恐怖感を今はまったく感じない。どころか、労わるように時間をかけて施される行為には快感さえあった。腹部、腿、爪先など至るところに刻まれた噛み跡すべてを快感で塗りつぶされ、残すところは鎖骨のみかと思われる頃には、澄の身体はくたりと力を失っていた。
「っは…ぁ…っ」
「初めて会った時、君の指を傷つけた時もこうしたことがあるんだけど…ヴァンパイアの唾液には治癒作用があるんだよね。傷、もう痛まないでしょう?」
「ほんとだ…」
「あともう少しで終わるからね」
そうして首筋に近づく唇を、澄は思わず手で塞いだ。
「祢屋くん?」
不思議に思い李遠が様子を窺うと、その瞳からははらはらと涙がこぼれ落ちていた。
「えっ!あ、うわっごめん!そうかあんな目に遭った後じゃ怖いに決まってるよな、軽率だった…」
「いや、違っ!どっちかって言うと、安心して…悪い急に、」
謝る澄に対して咄嗟に首を振って、じっと話の続きを待つ。乱暴に袖で涙を拭うと、彼は言葉を続けた。
「情けねぇけど、あの時身体がすくんで全然動かなくて。何でこんなことになってんのか状況だってさっぱり分かんなかったし、とにかく痛くて怖くて…気づいたらリオンの名前を呼んでた。そしたらさ?ほんとに来てくれるわ、あっという間に助けてくれるわで…何なんだよお前、かっこよすぎ」
そこまで言うと両手で顔を覆って、澄の背中が丸まった。耳はうっすらと赤く染まっている。
絶望の中で訪れた救済が、自分にとってどれだけ嬉しかったかこの男はきっと分かっていないのだろう。他人のことには敏いのに、自分のこととなると妙に鈍感なのは短い付き合いの中でも十分に理解している。だのに恐ろしいほど優しくて、その優しさは時として、真綿で首を締めるようにこちらを苛んでくる。
今だってそうだ。相手は善意で治療行為をしてくれているのに、自分はそれを素直に受け取れなかった。己の身体に這う舌や手が、それが転校生だった時は死ぬほど嫌で仕方がなかったのに。リオンに変わった途端、身体はあさましく感じてしまっていた。そんな自分がひどくいやらしい人間になったような気がして、顔から火が出るようだったのに。
「もう、俺、おかしい…あんなことされて怖かったに決まってるのに、してくるのがお前だと気持ちいいって思っちゃうんだぞ…?ただの、治療行為なのにさ、」
「祢屋くん…」
「っ、初めて会った時からさぁ!優しすぎるんだよお前はっ!普通初対面の人間を部屋にあげて看病しねぇし、自分の時間を割いてまで協力もしねぇ!お前は俺ががんばってるから協力してくれるんだって言ったことがあるけど、がんばってる奴には誰にでもこうなのかっ?
包み込んで、甘やかして、傷まで舐めて治したりしてっ…それに!っ…それにドキドキする俺って何なんだよっ…もう、分かんねぇよっ…」
溢れる涙を拭うことも出来ずに鼻をすすっていた、次の瞬間。身体が急に起こされたと思った時には、李遠の顔が首筋に迫っていた。
「ぁ、ゃだ、やだっ…ふ、ぁ!」
おそらく転校生に噛まれたであろう場所を、李遠の舌がゆっくりと蹂躙していく。それは自分がおこなっている行為を澄に知らしめているようにも見えた。
どうして李遠は今こんなことをするのか。澄の頭の中はぐちゃぐちゃだ。ただでさえ混乱しているのに、心までいたずらにかき乱すのはやめてほしい。
胸が張り裂けそうな思いに、澄の瞳からはまた涙が一筋こぼれ落ちる。それに気づいたのかは定かでないが、李遠はおもむろに顔を上げて眦にくちづけを落とした。
突然の行動に目を見開く澄に反して、浮かべる李遠の表情は柔らかい。
「そんなにお人好しじゃないよ、僕は」
「ぁ…?」
「僕は誰彼構わずお節介を焼いてあげるほどお人好しじゃない。でも、君は僕を優しい博愛主義者のように思ってくれているみたいだから…君が言うところの『普通の人だったらやらないようなこと』を、僕が君にしてる意味は逆に考えたことがなかったのかな」
見つめてくる深紅の瞳に捕らわれて、澄の喉が鳴った。
「祢屋くん、気づいて…僕は」
自分の悩みの、その逆を考えようだなんて思ってもみなかった。悩みの反対ということは、それを解決できるような…自分の望む言葉が返ってくるということで。
(そんな、まさか)
何かに囚われたかのように、李遠の唇が言葉を紡ぐのを見つめる。人知れず期待に揺れる心は、裏切られることはなかった。
「僕は君を特別に思ってる。好きだよ」
柔らかい微笑みとともに李遠が落としたくちづけは、今度は眦ではなくしっかりと唇へ落とされる。
「うそだぁ…」
「嘘じゃないよ」
「ほんとか?ほんとに…?」
「うん。…返事はくれないの?」
「ぅ、うぅーっ…おれも、すきだ…っ」
「ああほら、そんなに泣かないで」
澄の嗚咽を閉じ込めるかのように、李遠はまた唇をふさいだ。
澄から滴る唾液は果実酒のように甘く、よくよく考えれば彼の体液をまともに味わえたのはこれが初めてだと気づく。初対面で吸った血ははっきり言って不味かったし、今しがた身体を舐めたのも治療するためで、それを味わおうなどという考えもなかった。
ということは、自分はこの極上の肢体を度外視して、彼を好きになったということだ。吸血鬼が血を無視するとはおかしな話ではあるが、血など無くとも身体は歓喜にうち震えていた。
(ああ、本当にいとおしい)
抑えきれない愛しさを目一杯ぶつけるように、李遠は澄を強く抱きしめた。
end
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