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第8話 ほら、こんなに手も冷たい
「ユウくん?」
声をかけると、彼の視線は不自然なまでにキョロキョロと動いて、やがて零が目印として伝えてあった雑誌に止まった。
おどおどした表情の少年。こんな出会い方には明らかに不慣れだ。どれだけの勇気を振り絞って今ここにいるのか。零は今ここで初めて対面したはずの「ユウ」に、十年近い片恋の相手を重ねて、抱きしめたい衝動に駆られたが、もちろん実行はしなかった。
「はい。えっと、アイさんですか」ユウは顔をこわばらせたまま問い返してきた。
「そう、アイです」
「今日は来ていただいてありがとうございます。よろしくお願いします」
ユウが丁寧にお辞儀をしてきたので、零は思わず笑ってしまった。それから、抱きしめる代わりに、自分の諦めた恋を、この若い「ユウ」に託したいとも思った。
食事を終えて、佑とアイはホテルに向かっていた。歩を進めるにつれて、佑の足取りは無意識に重くなっていた。会話は弾まなくなり、ついには黙りこくる佑の肩をそっと抱いて、アイが優しく言った。
「無理しなくていいよ。今日は食事だけにしておこうか」
こんな出会い方での初めての相手がアイだったのは、とてもラッキーなことなのだろうとは佑にも想像できた。アイの容姿は俳優張りに整っていたし、清潔感もあり、何よりこんな風に優しい。
「大丈夫です。覚悟はしてきたので」
「覚悟だなんて」アイは少し困った顔を浮かべた。「あのね、そういうことは大事にしたほうがいいよ。ヤケッパチで童貞捨ててもいいことなんかないよ? 俺の初体験の相手なんて、本当にひどくて。その時は焦ってたし、何も知らないからそんなものなのかなって思ったけど、その後まともな彼氏ができた時、死ぬほど後悔したから」
「アイさんでも後悔なんてするんですか」
「するよ。今だってそう。このままユウくんを抱いたら、きっと後悔する。したいのはやまやまだけど」
「でも、御馳走になったし」
アイは咳き込むようにして笑った。「あんな食事程度で釣ろうとは思ってないよ」
「でも……」
「好きな子、いるんだろ?」アイは佑の肩を抱く手をそっと外した。「告白して、玉砕した?」
佑は無言で首を横に振った。
「告白もできなかった?」
それにはコクリと頷いた。
「嫌われたくなかった? ゲイだってバレたら友達ですらいられないって思った?」
佑は立ち止まる。アイもそれに合わせて足を止めた。「嫌われるのは構わなかった。でも、傷つけたくなかった。僕のこと、そういう奴だって知ったら、きっと傷つく」
アイは少し肩をすくめた。「やっぱり、ホテル行こうか。コーヒーでも飲みながら、話を聞くよ」そう言いながら顔を上げ、「今日は随分と冷えるしね」と付け加えた。空からは時期外れの雪がちらつきはじめていた。
「雪……」と佑は呟いた。その佑の手をアイは握った。
「ほら、こんなに手も冷たい。少し、暖まろう」
アイを信じていいのだろうか、と佑は躊躇した。いくら何もしないと言っても、口先だけのことかもしれない。こういう出会いに慣れていそうなアイ。その手練手管で誘惑されたら流されてしまうかもしれない。
そう思った自分に佑は苦笑した。
流されるも何も、そのつもりで、今日ここに来たってのに。
やがて二人はホテルの一室にたどりついた。欲を満たすだけの安っぽいラブホテルなどではない。それなりにきちんとしたシティホテルだ。
「寒かったね。お風呂で暖まったらいいよ」とアイが言った。
「アイさんは?」
「俺は平気。これで暖まるから」アイは部屋に置いてあるウィスキーのミニボトルを示した。
佑は戸惑いながらコートを脱ごうとするが、リュックが引っ掛かってもたついているうちにポケットからスマホが落ちた。それをアイが拾う。スマホカバーには学生証が入っていて、佑の顔写真がのぞいていた。
「ユウって本名なんだ」アイはそう言い、すぐに「あ、ごめん、見えちゃった」と言った。
「え? 本名じゃないですよ」アイなら本名ぐらい知られても構わない、と思える程度には信用を深めていた。
アイはいったんは佑に渡しかけていたスマホをもう一度自分の手元に戻して、学生証を見直した。「ああ、これ、タスクって読むんだね」
「はい」答えながら、ようやく佑はアイの勘違いの理由に気付いた。「佑」の文字は「ユウ」とも読める。
改めてスマホを返すと、アイは上着の内ポケットから名刺入れを出した。「俺のほうも一応身分を明かしておくよ」そう言い、更に名刺の裏にさらさらと番号を書いた。「これは個人的な連絡先。いつかね、また、気が変わったら」
「ありがとう……ございます」佑は名刺の名前を読む。「佐藤 、零 ?」
「サトウがゼロだからノンシュガーだのシュガーレスだの言われるよ。本当は甘党なんだけどね」
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