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第9話 おまえの名前はノンシュガーみたいだな

 零は軽く嘘をついた。これは営業先で会話のきっかけとして使っているネタだけれど、実際シュガーレスなどと呼ばれたことはない。高校時代の部活の顧問が「おまえの名前はノンシュガーみたいだな」と冗談を言い、部活仲間だった有が、それをネタにしてしばらくからかっていただけのことだ。 「え?……ああ、なるほど」佑は笑った。 「初めて笑ったね」零はそう言って、結局まだ脱げていなかった佑のコートを脱がせてやった。「ほら、お風呂入っておいで。……大丈夫、何もしないから」零は軽く佑の背を押した。  風呂から上がった佑は、ほかほかと湯気を立ち上らせながら、ソファで水割りを飲んでいる零の元へと慌ててやってきた。「アイさん、僕、気が付いちゃいました」 「えっ?」 「僕とアイさんで、ユーとアイになります」  世紀の大発見をしたように語る佑を見て、零は声を立てて笑った。「本当だね」  零が笑うのを見て、佑は急に恥ずかしくなった。「すいません、くだらないこと言って」 「ううん、面白い。ねえ、そしたらさ、アイはユウを愛してるって言おうとしたら、アイラブユーだね」 「その場合のアイは固有名詞だから、動詞には三単現のSがついて、アイ、ラブズ、ユーです」 「そんな細かいところはいいだろ、別に」零はさっきよりも大きく笑った。 「そうですね」佑も笑った。  でも、「自分はユウを愛してる」と言うのなら。  アイ ラブ ユウ、で正解だ。  二人ともお互いの想い人が「ユウ」であることを知らぬままに、そんなことを思った。 「どうした?」零がまた優しい声で尋ねる。 「なんでもないです」  零はそれ以上問い詰めることもなく、立ち上がって冷蔵庫を開けた。「風呂から上がったばかりだから、咽喉乾いてるだろ。ジュース飲む?」 「あ、いえ。ジュースはさっきの店でたくさん飲んじゃったから、温かいのが飲みたいです。ホットコーヒーとか」 「コーヒーね」零はグラス類の置いてあるトレイ付近を見た。「うーん。インスタントはあるんだけど、美味しくなさそう。ルームサービス頼もうか?」 「インスタントで充分です。それに自分でやるから、アイさんはお酒飲んでてください」佑は零の隣に立った。 「一人で酒飲むのも飽きちゃったよ。コーヒーなら俺も飲むから、一緒に頼むね」言うが早いか、部屋の電話から注文をした。  やがて届けられたコーヒーは立派なトレイに乗っていて、シュガーポットに、本物の生クリームも添えられていた。 「砂糖はいくつ?」と零が聞いた。 「なしで。何も入れません」 「入れないの? 大人だねえ」冷やかすように言った。「俺は甘党だから、と」零は自分のカップには砂糖も生クリームもたっぷり入れる。 「受験勉強の時、眠気覚ましに飲んでたのがクセになっちゃって」 「ああ、だからブラック」 「はい。……あ、美味しい。やっぱりこういうところのコーヒーって美味しいんですね。自分ちで飲んでたのと全然違う」 「そう? 良かった」零は一人掛けのソファから、佑の座っていた二人掛けのソファへと移動した。「困ったな」と呟いて、佑にぴったり密着するように座る。  急な接近にどぎまぎしながらも、佑は「何が困ったんですか」と言った。 「何もしないと約束した手前、これ以上のことはできないから」  佑は真っ赤になってうつむく。ソーサーに置いたカップがカチャンと音を立てた。その音よりも大きな鼓動音が響いている気がして落ち着かない。早くそのコーヒーをテーブルに置かなくてはと思うが、緊張して体が動かなかった。「べ……つに、そのつもりで、来たんだから、い、いいです、けど」 「ほんとに?」至近距離で零が言うと、甘いコーヒーの香りが漂った。  返事の代わりにぎゅっと目をつぶった。耳元が熱くなって、零がそこに唇で触れているのが分かった。 「ユウ」零の声が響いた。  その瞬間だ。  違う、と佑は思った。  僕はユウじゃない。  ユウはあいつのことで、それで、あいつをユウと呼んでいいのは僕だけで。  気付いたらコーヒーカップをテーブルに叩きつけるように置いていた。割れなくて良かったと思う勢いだった。 「ごめんなさ……い」動悸がして、顔が上げられなかった。ユウへの想いの苦しさと、零への申し訳なさとで混乱していた。  ふう、という溜め息が聞こえた。それから頭に零の手が乗せられたのを感じた。その手はいいこいいこするように佑の頭を撫でた。「良かったよ。危うく俺も悪い大人になっちゃうところだった」 「ごめんなさい」と佑が繰り返した。 「自分の本当に気持ちに気が付いた、ってことかな?」  佑は今度こそ顔を上げ、零を見た。

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