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プロローグ (3/3)
『分かるか、ルカ』
昔、嗅覚を失くしたルカに目を輝かせてそう語りかけたのは、王に仕えていた父。
『お前が大人になればヒートでアルファの理性を崩せる。相手のフェロモンに影響されずにな。これはすごいことだぞ!』
十二歳のルカには当然理解できなかった。父の言っていることも、自分の将来のことも。
ただ、初めて父から向けられる期待の眼差しが嬉しかった。
ここローアン王国では王が方針を定め、武官が提案を出し合い、その一つを王が採用する。成功すれば地位と名誉を手に入れ、君主の信頼も得られる。
大きな賭けだった。鼻が利かなくてもアルファのフェロモンに当てられるかもしれない。ヒートがきつければ十分に動けないかもしれない。だがうまくいけば、父はどんなアルファでも殺せる武器を手に入れ、王に多大な貢献ができる。
父はその可能性に賭けた。
初めて人を殺した時のことは今でも記憶にこびりついている。
驚くほど簡単だった。
五感の一つが壊れているせいか、ヒートになっても身体は火照る程度で、アルファのフェロモンにも反応しなかった。だが、生暖かい血の感触と凍てつく心が激しい嫌悪感を巻き起こして震えが止まらなかった。その晩、何度も吐いたことを覚えている。
恐ろしかった。逃げたかった。それでも嫌だとは言えなかった。
喜ばれたからだ。一度も認めてくれなかった父に褒められ、いつもは冷たい目で見る母に笑顔を向けられ、弟にはますます頼られ――。
どんな形でもいい。家族の役に立てるのならと、自分の気持ちを胸の奥深くに封じ込めた。
両親はその数年後に病で亡くなったが、ルカは家督を継いだランツのために暗躍を続けた。武力がものを言うこの国では王の座を狙う領主が後を絶たない。それを陰で始末していくのがルカの仕事だった。
「今度の標的は?」
また人を殺さなければならないと思うと心が重くなったが、悟られないように軽く尋ねる。
「フェルシュタイン王国のエルベルト王」
「え……」
想像を絶する答えに弟を凝視した。
「――王を? それもフェルシュタインって……戦争でも起こす気か?」
ランツは真剣な表情で頷く。
「そうだよ。陛下がご決意されたんだ。不作で苦しんでる人たちを救うためにもね」
フェルシュタインはローアンの南にある王国だ。規模としてはさほど大きくはないが、資源にも天候にも恵まれている。その領土を手に入れたい考えは理解できる。だが歴史あるフェルシュタイン王国との戦争は民族間の権力争いとはわけが違う。
「勝算はあるのか? こんな大それた作戦、失敗すればお前の立場がなくなるだろう」
ルカにとってはそれが一番恐ろしかったが、ランツは自信に満ちた顔で笑った。
「大丈夫だよ。昔はそれなりの軍事力を持ってたみたいだけど、今はすっかり平和ボケしてる。同盟国も貿易同盟で戦力にはならないし。それに僕には兄さんがついてる。エルベルトの首さえ取れば勝ったも同然だよ」
「……なら、いいんだ」
ランツは物腰が柔らかいが、ローアン独特の好戦的な考え方を持っている。一度決めたことは絶対に曲げない。王に尽くし、国をよくするためには手段を選ばない。そういうところは父によく似ている。
国も国王もどうでもいいと思っているルカに口出しする資格はない。
「エルベルト王、か」
舌の上を滑ってこぼれるような名前だ。そう思いながらランツが並べる情報に耳を傾けた。
エルベルトはアルファ属性で、年齢はルカと同じ二十五歳。弱冠十二歳で王の座を継ぎ、海を利用して様々な国と同盟を結ぶことで自国を潤していた。有利な立場でいるためにはどんな手でも使う怜悧な男だと言われている。
何でも手に入る同じ年齢の王に、この世界はどんなふうに見えているのだろう。ふとそんな考えが頭を過ったが、すぐに振り払った。これから殺しに行く相手のことを知ったところで虚しいだけだ。
手元にある冷え切った茶に目をやったが、どうしても飲む気にはなれなかった。
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