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第一章 (1/4)

 何かを美しいと思ったのは何年ぶりだろうか。  あまりに久しい感覚にルカは足を止めた。  永遠に続きそうな広い廊下。いくつも並ぶ大きな窓。差し込む満月の明かりに描かれた銀色の模様が大理石の床に広がる。染み一つない白い壁は贅沢な金細工に飾られ、それらは黄金の蔦のように高い天井まで伸び上がっている。  この宮殿はローアンの要塞とはまるで違った。見せるため、喜ばせるために作られた温もりがある。静寂に包まれた夜半でさえ美しいのに、陽の高い時間に見るとまた一段と豪奢に見えるのだろうか。  ――これがエルベルトの住む世界。  そう思った途端、眉を寄せて、馬鹿か、と自分を諫めた。ここへ来るまでエルベルトのことが何度も頭を過っていた。なぜ今回に限ってこれほど標的を意識してしまうのか。  胸騒ぎがする。  気を緩めてはならないと思い、ルカは足音を殺して宮殿の奥を目指した。  ランツから得た情報のお蔭で問題なく潜入に成功し、巡回していた見張りの一人を絞め落として制服を奪った。今のところ順調だ。幸い、ベータはフェロモンに反応せず、何度かすれ違ったが白を切ることができた。おそらくアルファは王の直属の護衛にしかいない。  迷うことはなかった。まるで道案内をするかのように壁の蝋燭が淡く闇を照らし、横をすり抜ける度にその灯火は揺れて蝋が涙のように幹を伝う。  何かに導かれている。  そんな不思議な気分に足を速めた。  三階の中央に天窓に覆われた短い廊下があった。突き当りにある両開き扉の前に軍人が三人、長剣を構えて立っている。  アルファであることは一目瞭然だ。巡回をしているベータ兵とは身構えも雰囲気も違った。宮殿に住んでいる王族がエルベルト一人だということを考えると、ここが王の寝室で間違いないだろう。  ルカはきつく締め付ける襟のボタンを開けて熱っぽい息を吐いた。これからやることを考えると、上気して汗ばむ肌と相反して身体の底から悪寒が這い上がる。  その不快感に一瞬だけ表情を歪めたが、すぐに瞼を閉じ、余計な感情に蓋をした。  エルベルトを殺す。  目的だけを頭に残し、廊下に踏み出した。 「何用だ」  やや潜めた声で見張りの一人が問い掛けてくる。 「ご報告です」  ルカが短く答えると、男は規則正しい靴の音を響かせながら二人の間の距離を縮める。  そろそろだ、と思った瞬間、男が動きを止めた。  驚愕に目を見開く相手をよそに、ルカは一歩、また一歩と男に近付く。 「き、さま……」  見慣れた変化だ。ルカはどこか憐れみにも似た思いで、男の引き攣る顔にある困惑と怒りが欲望一色に塗り替えられるのを眺めた。 「おい、どう――うッ!」  異変に気付いた後ろの二人も前へ出ると同じように硬直した。一人は鼻を覆い、もう一人は援護でも呼ぼうとしたのか、駆け出した。しかし抵抗も虚しく、全員がルカに襲い掛かってきた。  人はなぜこんな下らない性に支配されるのだろう。自我を失い、武器を捨て、ただ交尾のことしか考えられなくなるアルファを前にするといつもそう思う。  技も策もなく、ただ盲目に突進してくる三人を避けるのは容易かった。見た目とは裏腹に、長年の訓練によってしなやかな筋肉がルカの全身を覆っている。力ずくではなく、相手の急所を狙える速さと俊敏さに特化した肉体だ。  肝臓、顎、こめかみ。流れるような動作で一撃ずつ食らわすだけでことは済んだ。  殺す必要なんてどこにもない。意識を取り戻した頃には全てが終わっているはずだ。  突っ伏した男たちを残し、ルカは扉へ向かった。  入ってすぐの控えの間には誰もいない。左右の扉の右のほうへ耳を当ててみたが、厚さがあって中からは何も聞こえなかった。用心深く隙間を開けると、月明に照らされた広い寝室が見えた。  まだ使われていない暖炉の前には質の良さそうなソファーが黒々と光るテーブルを挟んでいる。部屋の奥には天蓋付きのベッドが鎮座し、ルカはナイフを抜きながら音もなく吸い寄せられるようにそれに近付いた。

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