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第三章 (6/6)
「ぁ……っ」
唇が離れ、胸に穴が開いたような冷たい喪失感に切なげな声がこぼれる。
「……意外だな」
エルベルトは目を細め、茫然と開いたままのルカの唇を指でなぞった。擦り付けられる唾液を思わず舐め取ろうと舌を覗かせたところでルカはようやく我に返り、全身をおののかせた。
――なんだ、今のは……。
まさか、嗅覚が戻ったのか。
淡い期待が頭を過り、エルベルトが首筋に顔を寄せるのも黙って許した。しかし鼻先に触れる金色の髪からは何も匂いがしない。
深く息を吸い、満ち足りたような溜息を吐くエルベルトが羨ましくて仕方がない。
詰め寄る失望と孤独感に耐えるしかなく、情けない顔を見られていないのが唯一の救いかもしれなかった。
「ルカ」
耳に触れる声が鼓膜を震わせる。後頭部に手を回され、抱き寄せられたが、抗おうとしたのは一瞬だけだった。疲労も絶望も、何もかもが重すぎた。
「私は運命の番だろうと、つまらない奴なら切り捨てるつもりだった。しかしお前は私の予想をことごとく裏切ってくれる。番にするに相応しい。必ず手に入れてみせる」
静かで揺るぎない声だ。いくら敵視していても伝わってくる。こんな真摯な想いが本当に嘘なのだろうか。分からない。なぜそこまでして自分を取り入れたいのかも。
「俺は、あんたの命を狙ってるんだぞ。そんな奴を番にするなんて馬鹿だろう。誰が認めるんだ」
エルベルトが喉を震わせたのを肌で感じる。
「私が決めたことを誰に認めてもらう必要がある。おかしなことを言う奴だな。お前は余計なことを考えず、私だけを見てればいい」
権力者らしい傲慢さだ。
「どうせ俺に選択権はないんだろう」
投げやりな言葉はまんざらでもなかった。
「お前がそう簡単に諦めるものか。どうせ従順なふりをして、また私の首を狙うのだろう? それならそれで構わん。気が済むまで何度でも仕掛けてくるがいい」
もはや驚きすら沸いてこなかった。こんな単純な計画、読まれて当然だ。それを知っていて自分をそばに置くこの男の神経が理解できない。
ただの命知らずか。
それとも本当に運命の番とやらの絆で自分を懐柔できると信じているのか。
「もういいだろう。離せよ」
みっともないくらい声が枯れて弱々しく聞こえる。
このまま組み敷かれてまた犯されるのかと半分諦めていたが、意外にもエルベルトはあっさりと身を引いた。急に支えを失って身体が倒れそうになり、慌てて床に手をつく。
いつの間にそんな力を抜いていたのだろう。
手のひらに残るエルベルトの体温が冷たい石に吸い取られ、寒さと虚しさが押し寄せてくる。陽が動いて陰になったからだと自分に言い聞かせる。
エルベルトは立ち上がったが、その動作を追うのも億劫で目を閉じた。すると小さなそよ風が舞ったように空気が揺れ、柔らかい毛布が肩に落とされた。
驚いて顔を上げるとエルベルトと目が合う。相変わらず何を考えているのか分からない、綺麗で吸い寄せられる目だ。
「床は冷える。早く食べてベッドに戻れ」
そう言って食事のトレイをルカの前に置くと、そのまま踵を返して部屋を出て行った。
ルカはしばらく閉まった扉を眺めていたが、いずれ視線を落としてスープに手を伸ばした。匂いも味もしないはずのそれが、わずかな甘さを残して舌の上を流れる。
あの口付けと同じ甘さだった。
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