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第五章 (1/5)

 嗅覚を失くしたのは十二の時だった。  当時、一人だけ友人と呼べる存在が、父の友人の次男だった。ユルグは一つ年下のアルファだったが、アルファにしては珍しく控えめな性格で、軟弱と言われていたほどだ。一族の中では異端児として扱われ、その共通点が二人の仲を深めた。  ランツが父の教育を受けている間、ルカはよく農業に興味を持っていたユルグに付いて街の外に広がる畑に行っていた。  掻き混ぜられた土の匂いや、風に煽られる草木と麦の独特の香りは嫌いではなかった。熱心に畑仕事を手伝うユルグの姿も、向けられる無邪気な笑顔も。  事故が起きたのは、誰もが限界まで追い詰められる収穫期だった。  刈られた麦をユルグと束ねていると、重く積み上げられた荷台を引く馬が横を通りかかった。なかなか進まない馬に苛立った乗り手は大きく鞭を振りかざし、それに怒り狂ったのか、馬が急に暴れだした。  跳ね上がる馬の蹄がユルグに当たる寸前、ルカは反射的に飛び出して彼を庇っていた。そこから先の記憶はない。頭を蹴られて重傷を負い、数日は意識が戻らなかったらしい。  目が覚めた時には匂いが分からなくなっていた。  失くしたものがどれほど大きかったか理解するのに時間はかからなかった。だが弟に心配そうな眼差しを向けられ、父に戸惑うほどの関心を急に注がれる中、落ち込むことも、悲しむこともできなかった。  当然、ユルグの前でもそんな気持ちの欠片も見せなかった。  それでも彼は自身を責め、見舞いに来る度に涙した。ルカがいくら大丈夫だと言い聞かせてもユルグは悲しみに暮れた。 「悲しむことなんてないよ。兄さんも気にしてないし、それに父さんもこれはいいことだって。これで兄さんもアルファみたいに戦えるって言ってたよ」  ランツは誇らしげに兄は暗殺者になるんだと告げた。  暴力をこの上なく嫌うユルグは蒼白な顔ですがるように見詰めてきたが、ルカはそこに潜む不安を消してやることはできなかった。  それから幾度となく考え直してと必死にせがまれたが、ルカはそれに応えられなかった。曖昧に笑って流す自分に業を煮やしたのか、ある日ユルグはとんでもないことを言い出した。  番になって結婚しよう、と。  驚きのあまり何も言えずにいると、ユルグは腫れ物に触れるように口付けをしてきた。  オメガはオメガを生む確率が高い。力が全てのローアンではその性質は特に疎まれ、惹かれ合って番になる者はいても、それが婚姻という形で結ばれることは稀だ。アルファがこだわる名誉ある一族の跡継ぎにオメガなどが生まれてしまったら、ルカの両親がそうなったように、貴族社会の憐れみと嘲笑の的になる。  恋人のように接してくるユルグを拒むことはしなかったが、何度も繰り返される申し出は断り続けた。  ユルグが見ていたのはルカではなく、己の罪悪感だった。彼の優しさも気遣いも、それを和らげるためのものだと子供ながら理解していた。ユルグが救われるのであればとそれを受け入れたが、それ以上の気持ちはなかった。  匂いを失くしたことで人と分かち合える繋りを失くしていたからだ。  いくら口付けを交わそうと、優しく舌を吸われようと、何も感じなかった。体温が伝わるほどきつく抱き寄せられても、目を閉じるとそれがユルグであると感じられなかった。薪が燃え尽きてぬるくなったストーブに身を寄せている感覚と何ら変わらない。  首を決して縦に振らない自分に、どうして、と身を乗り出して言い募るユルグからは、いつも漂わせていた土や干し草や彼自身の匂いがしない。見えない膜に隔たれたような孤立感に二人の間の距離が広まっていることに気付いていても、それを止めることはできなかった。好きだった彼の匂いを求めれば求める程、胸に空いた穴は冷たくなっていった。

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