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第五章 (5/5)
「夕方には戻る。何か欲しいものはあるか」
「……あんたの首」
「本気でそう思ってるならもう少し殺気を込めてみろ」
喉を鳴らして笑うエルベルトを忌々しく睨んだ。
「楽しそうだな」
「ああ、お前とこうして話せるのは楽しい。できればずっと話していたいが、そうもいかないのでな」
本当に残念そうに部屋を出て行くエルベルトをルカは唖然と見送った。
――話し……。
言われてみれば、確かに自分の口数は増えている。
以前は何を言われても唇を固く結んでいたはずが、いつの間にか応えるようになっていた。
自分の中で何かが変わりつつある。
エルベルトの優しさに触れると、考えたくもないのに比べてしまう。父は一度でも自分を傷付けたことを悪いと思っただろうか。弟は自分の体調を気にしたことがあっただろうか。
そうして欲しかったわけではない。ただ、今まで見えていなかったことを――見ようとしなかったことを――突き付けられる。
心が傾くのを感じていた。踏み留まるのが日に日に難しくなっていく。
芽生えた気持ちを何度葬ろうとしても、それは何度でもよみがえってきた。
――エルベルトを殺したくない。
それが噓偽りのない自分の気持ちだった。
だがそう思う度に身を切られるほどの苦痛に苛まれる。
それはつまり、ランツを裏切るということなのだから。
「そんなの……ッ」
ありえない。
奥歯を噛み締め、歪めた顔を両手で覆った。
こんなことで迷う日がくるなんて思いもしなかった。
いつだってランツが最優先だった。それを揺るがすものがこの世に存在するはずないと信じて疑わなかった。
それをエルベルトがことごとく崩していく。欲しいとも思わなかった言葉で、何も感じなかったはずの口付けで、孤独しか生まなかった抱擁で。
全てを覆し、気付けば自分の一番大事な存在と同じぐらい心を占めている。
どうすれば追い出せるのか。
本当に追い出したいと思っているのか。
――考えるな。
自分の気持ちほど危険なものはない。考えずにそれを捻じ伏せればいいだけのことだ。
だがずっとできていたことが、どうしてここにきてこんなにも難しいのだろう。
全てが嘘だったなら、と思わずにはいられなかった。向けられる執着も、優しさも、気遣いも、全てが嘘で自分を嵌めるための罠だったなら、どれほどよかったか。どれほど楽だったか。
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