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第八章 (1/6)

 その日、エルベルトが戻ってきたのは陽が沈みかけている夕暮れ時だった。厚めのコートを用意され、向かったのは庭園の奥にそびえる小高い丘。頂上には列柱回廊が翼のように中央の建物を囲い、見る者を圧倒させる長大な離れがある。  その足元に造られた池を回り、石造のテラスに辿り着くとエルベルトに促されて背後を振り返った。夕陽を浴びて煌めく池の向こうには広大な庭と宮殿、そして都の街並みが一望できた。季節に染まる木々に、明るい色をした家の数々。  平和で、穏やかで、笑いと温もりに溢れた街。 「美しいだろう」  エルベルトの静かな声に、頭の片隅にそう思っていたことを自覚させられる。  いくら己を律しようとしても、今朝から思考や感情がまるで水のように指の隙間をこぼれ落ちていく。とめどなく溢れ、止められなくなっている。 「下ばかり見てると損するぞ。ほら……」  顎に触れられ、知らず落としていた視線を上げると宮殿の裏庭で何かが動いているのが見えた。それが鳥だと気付いた頃にはその群れが坂を一気に翔け上がり、力強い羽ばたきと共に目の前を過って空に舞い上がっていった。  十羽はいるだろうか。動物庭園に行く途中で見たキバタンという鳥だ。あの時は眩しい黄金色に見えた翼が、今は炎を纏ったように輪郭を夕陽の色に染めている。  反射的にその姿を追って空を振り仰いだ。 「どうだ?」 「すごい……」  綺麗だ。思わず本音をこぼしていた。 「できればすぐに見せてやりたかったんだが、群れを躾けるのに時間が掛かってしまった」 「え?」  思いがけない言葉にエルベルトを見ると、そこにある優しい表情に胸が小さく弾んだ。 「見惚れていただろう? 今もほら、いい表情だ」  ルカの目にかかった髪を掬い、満足そうに顔を覗き込んでくる。  咄嗟にいつもの癖で目を逸らしかけたが、寸でのところでもう一度エルベルトの顔を見た。  マルクの言っていた通りだ。  目の下にわずかな隈ができている。  優れた体力を持つアルファは多少の無茶をしても平然としている。こんなふうに疲れが顔に出ることは滅多にない。  ましてや一国の王が。 『貴様のために――』  マルクの責め立てる声が頭の中で響く。  エルベルトが鋭い口笛を吹くと、鳥の一羽が伸ばされた腕を目掛けて舞い降りてきた。激しく羽ばたく翼に掻き起こされる風が瞠目するルカの頬を掠める。  鳥をこんなに近くで見るのは初めてで、思っていたより遥かに大きい。頭には奇妙な黄色い冠羽。大きな黒い嘴と、白い皮膚に囲まれたギョロ目。  飛んでいる時はあれほど綺麗な姿をしているのに、近くで見ると驚くほど醜い。 「愛嬌があるだろう」 「はぁ? どこが?」  真逆の意見を言われて思わず素で答えてしまう。  侮辱されたと分かったのか、鳥は耳を刺すような悲鳴を上げた。それに紛れてもう一つ聞き慣れない音が耳に届き、ルカは驚いてエルベルトを見上げた。  笑っている。  人を小馬鹿にする笑いでも、挑発する笑いでもなく、心から楽しんでいるのが分かる晴れやかな笑いだ。見たことがないぐらいに表情を崩し、歯を剥き出しにして肩を揺らしている。  その瞬間、ルカの目に映ったのは国王ではなく、一人の青年だった。  優しくて、情の厚い、眩しいほど美しい男が笑っている。

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