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第九章 (1/6)

 床から響いた鈍い音にルカは我に返り、指の間から滑り落ちた本をぼんやりと見つめた。  何についての本だっただろうか。全く覚えていない。  腰掛けていたベッドから立ち上がり本を拾い、そのまま窓まで鎖を伸ばして外を眺めた。  窓を震わす強い風に雲は引きずられるように空を横切っている。時折その隙間から昼下がりの太陽が窺えるものの、温もりは感じられない。  エルベルトが宮殿を離れて三日が経とうとしている。どこへ行ったのかは知らない。ソフィアに尋ねようとする度にその衝動を抑えた。  聞いてどうする。  ――いっそ、帰ってこなければいい。  そう思うのに、エルベルトがいないと豪華な部屋は色褪せ、夜は冷え込み、毛布ではどうにもならない寒さが身体の芯に纏わりついた。  その感覚から目を背けるためにも弟のことを思った。  自分をいましめるように。  幼い頃の暗い日々から救ってくれたのは誰だ。思い出せ、と。  ランツが生まれるまでの五年間は断片的にしか覚えていないが、地獄だった。  自分が望まれていないことは、おそらく生まれた瞬間から感じていたはずだ。一体何をしたのか、何が悪いのか理解できないまま、ただ混乱と恐怖に身を小さくしていた。  何をしても、どんなふうに振舞っても母からは冷たい目で忌まわしく一瞥されるだけだった。機嫌が悪ければ叩かれ、食事を与えられないこともあった。  それでも子供は母親の愛情を求めずにはいられない生き物だ。  一度だけ、どうしても気を引きたくて、言い付けを破り、母が友人たちとお茶をしている部屋に入ったことがあった。突然現れたルカを見て、驚きの表情を浮かべる人も、失笑を漏らす人もいた。そして母はぞっとするような凍り付いた笑みを浮かべていた。  その晩、女中が運んできた食事には毒が盛られていた。襲い掛かる眩暈と嘔吐感に身悶えながらも、助けは求めなかった。心のどこかで分かっていたのだろう。これは友人の前で母に恥じをかかせ逆鱗に触れた罰なのだと。  殺すつもりでただ量を誤ったのか、それとも曲がりなりにも長男が死ねば世間体が悪いので最初から殺す気はなかったのか。ルカは永遠とも感じられる時間を自分の汚物にまみれて耐え、どうにか回復した。  そしてようやく理解した。望まれていないだけではない。憎まれているのだと。それこそ、殺したいほどに。  悲しみに打ちひしがれ、声を殺して泣きながらも、その事実を受け入れるしかなかった。その頃の父はルカがどんな目に遭っていようと、まるで空気であるかのように目も合わせず、存在すら認めてくれなかったのだから。  きっとどんな子供が生まれようと、愛されないのだろう。そういう人たちなのかもしれない。ならば邪魔にならないよう生きていこうと思い始めた矢先にランツが生まれた。

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