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第九章 (3/6)

「ご苦労だった。あとは頼む」  扉が開き、エルベルトが部下に労いの言葉を掛けて下がらせた。そうしている間も男の視線は広い部屋を見渡し、窓辺にいるルカを捉えた。 「留守にして悪かったな。元気だったか?」  あの夕暮れに見た険しい表情とは真逆の柔らかい笑みを浮かべて歩み寄るエルベルトの姿に、自分が深く安堵していることに気付き、ルカは眉をひそめた。 「たかが三日で何言ってんだ」 「たかが三日でも心配なものは心配だ。少し顔色が悪いぞ」 「あんたが言うな」  心配そうに覗いてくる男の顔には出掛ける前以上に疲労の色が滲み出ている。一体、どこで何をしていたのか。  エルベルトは苦笑しながらベッドに腰を下ろし、隣に座るよう手招いた。怪訝に思いつつも抵抗するのに疲れ、間を少し空けて座る。すると動物庭園で見たトラのような大仰な動きでエルベルトが横たわり、ルカの膝の上に頭を乗せてきた。 「は? 何……?」 「少しだけだ。少しだけこのまま、眠らせてくれ……」  よほど疲れているのか、言葉尻はほぼ消え、瞼を閉じた途端に身体の力が抜けていった。  規則正しい寝息を立てるその姿をルカはしばらく唖然と見下ろした。  よくもこんな無防備な姿を晒せたものだ。それも埃被った正装のまま――。  ――え……?  エルベルトの腰にある護身用のナイフが目に留まり、思考が止まった。  鼓動が跳ね上がる。  いつもは身に着けていない、金と宝石に飾られた立派な短剣だ。  ただの儀礼用か。それとも外し忘れたのか。  固まって動こうとしない身体を叱咤し、ベルトに収まったそれを音もなく抜き取った。一度も血を吸ったことのないような綺麗な刃だが、鋭く研ぎ澄まされている。  これでなら殺せる。気を許している今なら。  視線をエルベルトの顔に戻し、やるせない気持ちに喉が締まった。  初めて見た姿も寝顔だった。あの時は思いもしなかった。この顔が優しく微笑み、楽しそうに笑い、自分のために怒ってくれるだなんて。その笑顔にこれほど惹かれてしまうだなんて。  ――殺したくない。  この男の死顔だけは見たくない。  ランツか。エルベルトか。  振り子のように揺れ動く感情に眩暈がする。  早く。早く。  ――ランツのためだ。  なんだってやると誓ったはずだ。  刃先をエルベルトの首元に向けた。あとは動脈に沈めるだけだ。何度も一瞬の躊躇いもなく繰り返してきた動きだ。  それがなぜできないのだろう。  苦しくて、目の前が真っ暗になりそうだ。 「息を止めるな」  低い声に飛び上がりそうになる。  いつの間に目を覚ましたのか、エルベルトはじっとこちらを見上げていた。 「ルカ――」 「動くな!」  詰めていた息を叫ぶことでしか吐き出すことができなかった。  肩が激しく上下する。心臓が胸を突き破りそうだ。  エルベルトは少しも動かない。  浅く裂けた皮膚から血が流れても、瞬き一つしない。  同じ目だ。首を取れば幸せになれるのかと尋ねた時の、あの目。  殺されるつもりなのか。  あの言葉を信じて。  あんな馬鹿な嘘を。  嫌だ。  殺したくない!  エルベルトを――。  ――ランツを見捨てるのか!  ナイフを振り上げた。

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