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第十章 (7/7)
ランツの後ろからエルベルトが険しい顔をして近付いてきた。
「何をしてる。出発するぞ」
エルベルトはランツを引き剥がすように肩を掴み、馬のほうに押しやった。まるで嫉妬しているかのように見えて、少しおかしくなる。
しかしランツが睨みながら離れていったあとも、エルベルトの硬い表情は一向に消えず、膝をついてルカの頬に手を伸ばした。
暖かくて気持ちいい。
エルベルトの汗ばむ顔を見れば気温が相当高いのだと分かるが、ルカは氷に埋もれたかのように寒い。
「ルカ、お前ッ――」
「……ぃ、じょうぶ、だ」
何かを察したようにエルベルトの顔色が一変したが、ルカは消えそうな声で彼を遮った。
ここでエルベルトが躊躇ってはならない。これはもはや、自分とランツだけの問題ではない。交渉に成功しなければ戦争が始まる。
「……あんたにしか、できないことだ……」
だから、頼む。行ってくれ。一人のためだけに全てを台無しにしないでくれ。
ルカは不敵に笑ってみせた。
「心配、しなくても……俺は、あんたの……運命の番だ……そう簡単に死んだりしない」
「――お前は……こんな時に……ッ」
エルベルトは恨めしそうに睨み、そして噛み付くように唇を重ねた。
この嘘つきめ、と怒りをぶつけるような荒々しいキス。
「死なせてたまるかッ! 必ず解毒薬を手に入れてやる。それまで持ち堪えろ!」
そんな無茶な命令を言い残し、エルベルトは返事を待たずに身を翻した。
――最後まで傲慢な奴だ。
馬に跨り、号令を出し、ただ真っ直ぐ前を見て走り出す後ろ姿を、ルカは愛おしく思いながら見送った。口元は自然と綻び、意識を保っていた緊張の糸は心に広がる安らぎに溶かされていく。
力が抜けて首が後ろに倒れたのか、焦点の合わない目に空が漠然と映る。
黒い煙の間から、少しだけ青空が覗いていた。
エルベルトの眸と同じ色だ。
そこを飛ぶ一羽の白い鳥。
もう、あれを羨ましいとは思わない。
あの自由を、エルベルトが与えてくれた。
それ以上のものも、たくさん。
一瞬だけでも、十分だった。
幸せな未来を見せてくれて。
――ありがとう。
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