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第十一章 (1/3)

 あの夢を見ていた。  賑わう市場を歩く夢。  そこに匂いはない。だがそれを苦に思うこともない。  もっと大切なものが胸の中にあるからだろうか。  ふと手に温もりが触れた気がして振り向くが、誰もいない。  ――エルベルト。  分かっている。エルベルトだ。  自分にしか分からない、ほのかに甘い香り。  儚くも優しい、幸せな匂い。  ……ルカ。  遠くで呼ばれる。消えそうなほど小さな声で。  ……ルカ……。  遠のいていくそれを必死に追いかけた。  ――どこだ、エルベルト。  声が出ない。身体も思うように動かない。  目の前が真っ黒に染まり、何も聞こえなくなる。  ――待ってくれ、エルベルト!  手に残る温もりだけを頼りに走り続けた。  それが消えないように、それを離さないように、すがりついて、握り返して、追い求めた。  この世で何よりも欲しいあの男を。    ***  わずかな赤みを帯びた薄明かりの中で目が覚めた。  ――ここは……。  まだ半分微睡の中にたゆたう意識で思考の糸を手繰り寄せる。  何かを追って、ランツが叫んでいて、炎が……。  記憶が混濁し、うまく思い出せない。  ――そうだ、手……。  とても大切なものがそこにあった気がする。  ――あぁ、やっぱり。  視線を横に向けると、東の空を照らす淡い光を背に、エルベルトがベッドに頭を乗せて眠っていた。包帯の巻かれた自分の手を大事そうに抱えて。  それを見て火事の記憶も戻ってくる。  ――生きてる、のか……?  しかしエルベルトがなぜここに? ローアンに向かったはずだ。  まさか、引き返してきたのか。 「……、……」  名前を呼ぼうとしても声が出なかった。起き上がる力もなく、指先をわずかに動かすのが背一杯だ。これほど衰弱している身体に困惑すると同時に、ようやく生きているという実感が湧いてきた。  それがなぜなのか、どういうことなのか、茫然としながら考えあぐねているうちに、手の動きを感じ取ったのかエルベルトが目を覚ました。  目が合った途端、彼は飛び起きてベッドに乗り出してきた。 「ルカッ!」  その顔には見たことのない不安と焦燥が混ざり合い、少ない明かりの中でも疲弊しきっているのが見て取れた。頬がこけ、顔色も悪く、以前にも増して目の下の隈が濃くなっている。いつも絹のように美しく流れる髪も、掻きむしたかのように乱れて縺れている。  ――なんて顔だ。  思わず、声もなく笑ってしまう。  そんな弱々しい笑みにエルベルトは何かをこらえるように顔をしかめた。 「お前は本当に……ッ」  ルカの肩に額を落とし、そっと背中に腕を回した。 「――よかったッ……」  きつく抱き締められ、震えているのが伝わってくる。 「……ル、ベルト」  吐息ほどの細い声で男の名を呼び、力の入らない手をその背に伸ばした。

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