「手を振ってみろ」 　隣に並んだエルベルトが耳元で囁く。後ろから見ていた自信に満ちた動きとは程遠かったが、恐る恐る手を上げ、小さく振ってみた。 　するとひときわ大きな歓声が上がり、鳥肌が立った。 　今までこんなに多くの視線を向けられたことも、手を振っただけで歓喜されたこともない。当然だ。暗殺者として闇で生きてきたのだから。人知れず手を汚し、存在を知られないようにひっそりと暮らし、次の仕事を待っていた日々。 　遠い昔のようだが、まだ一年も経っていなかった。去年の今頃はあの街外れの小さな小屋で、なかなか暮れない陽を虚ろな目で眺めていた。粗末な長椅子に座り、街のほうからかすかに聞こえる人の賑わいに耳を傾け、ただひたすら時間が経つのを一人で待っていた。 「ルカ様！」 　混ざり合う多くの声の中から名前が聞こえてくる。 「おめでとうございます、ルカ様！」 「幸多き日々を！」 　目をこらすと一人ひとりの顔に笑顔が浮かんでいるのが見えた。心から喜んでくれているのが伝わり、胸が震える。 　あの何もない草原を眺めていた頃、こんな日がくるなんて、想像もできなかった。自分を道具ではなく人として愛し支えてくれる男と出会い、こんなにもたくさんの人に生まれてきたことを祝わってもらえるなんて。 　胸にこみ上げてくるものが苦しいほど熱くて、喉を塞いだ。 　同じ日に、とエルベルトが言い張ったのは、このためだったのだろうか。一度も「おめでとう」と言われたことがなかった自分に、一人でも多くの人に祝ってもらいたくて。 　その想いも、民の好意も、嬉しかった。だけど同時に、心に差し掛かる陰は夕日を見送る空のように、色を濃く深くしていった。 　無意識にエルベルトの手に触れる。こちらを振り向く気配がしたが、目を合わせられなかった。 　それでも、手を強く握り返され、安堵した。