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第11話:さよならまでのcount down 0 前編
治療をさせて欲しいと都希に言われ、それから俺は都希の婚約者で、精神科医の椛さんが経営しているクリニックに通っていた。治療と言っても、投薬があったり、処置的なものがあるわけでもない。ただ、椛さんと話をするだけ。
「…………」
精神的なものから発症するケースが多い為か、内科のような診察室ではなく、普通の家にある客間のような部屋で治療を行う。リクライニングの一人掛けのソファーに座らされて、コーヒーや紅茶を飲みながら、ただ、椛さんの問い掛けに答える。その問い掛けも、形式なものではなく、話をしながら自然と会話の中で繋がっていく。質問をされて、答えている感覚を味わう事はない。
「お疲れ様」
ただ、受け答えをしていただけなのに、気付くといつも記憶が飛んでいる。眠りについていたのか、それも定かではない。椛さんに肩を揺られて、目を覚ます。俺の顔を覗き込んでいる椛さんと、目が合う。目が合うと椛さんは、目を細め、優しげに笑みを浮かべてそう言った。
「うっ……」
目を覚まし、頬を伝っている涙に気付き、俺は自身の右の掌で涙を拭う。
「今日は深いところまで踏み込んじゃったから、帰るの落ち着いてからでいいよ」
俺に清潔な白いハンカチを差し出し、椛さんはゆっくりとした口調で述べる。
「す、みません……」
そのハンカチを受け取ると、椛さんは、壁際に置かれているアンティーク調な机へと向かう。診察の内容を書き始めているのだろう、机に向かって、ペンを走らせ始めた。
「都希が一緒に居た頃の向葵くんが出てきてくれればいいんだけど……、今日も無理だったね」
こうやって、ただ、ゆっくり話をしてるだけなのに、気付くといつの間にか、俺は泣いている。悲しかったり、苦しかったりってので泣いてるんじゃない、無感情なのに涙が出てくるんだ……、あの柊の前で、泣いた時と同じように。
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顔を合わせる事がないまま、数ヵ月が経った。俺からも、柚葉からも連絡をしないまま、時間だけが流れた。年も明け、新しい1年が始まる。週に一度の精神科への通院も、慣れてきた。それでも1度も、俺の中に居る向葵は姿を見せる事がなかった。
「……連絡してないの?」
「ん? まあ……、関係ないし」
治療が終わった後に、都希と話すのも、もう習慣になってきている。椛さんのクリニックは、自宅も兼用になっているから、窓口や待合室を通り抜けると、プライベートエリアに繋がっている。まあ、婚約者なだけあって、都希も一緒に住んでいるみたいだから、こうやって治療後に、話すのが習慣になったんだ。
「あ、今の向葵は柚葉くんが嫌いなんだっけ……」
うん、俺、柚葉が嫌いなんだよな。嫌いなのに、柚葉のことばっか考えてる。
「んー……、んー」
向葵の存在も感じてないのに、俺が柚葉の事を考えてる。
「え? なに?」
思わず、唸り声を上げてしまうと、都希は不思議そうに俺の顔を覗き込む。
「あいつは……、もう柚葉の事好きじゃなくなったから、出てこなくなったのかなって」
嫌いになって楽になりたい、でも好きなのを止めれなかった。柚葉を好きな気持ちを無くしたくない。止めれないんじゃない、向葵は、本当は好きで居たかったんだ。向葵が出てこないと、その好きな気持ちまで一緒に居なくなってしまうんじゃないかと思ってしまうんだ。
「俺の知ってる向葵は……、自分よりも他人を一番に考える子で、好きな人が一緒でも身を引こうとする子」
「え?」
好きな人が一緒でも……?
「それ、どういう……事」
向葵の事だから、共存しあっている俺が一番理解していたと思っていたけど、この都希もしっかりと、向葵の事を理解出来ている。都希の言葉に俺は問い返してしまっていた。
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俺の言葉を耳にすると、都希は小さく1つ頷いたかと思えば、俺に笑みを向けた。
「気付いちゃったんじゃないかな……、もしかして、な? 向葵?」
そう言うと都希は俺の胸元を、軽く拳で二度叩く。ドアをノックするかの様に叩いてきた。俺はその都希の手と顔を、交互に見比べてしまう。
「……どっちに話し掛けてんだよ」
「んー、両方?」
俺の中に姿を隠してしまっている、向葵に向けて言っているように聞こえてしまう。
「都希って鋭い時あるよな……」
「伊達に付き合い長くないからな……、向葵と」
都希はこう言いたいんだ。向葵の性格を判りきっていて、好きな気持ちがなくなって出てこなくなったんじゃない。それは、きっと、俺の気持ちが…………。気持ち……。
「ところでさ」
「ん?」
ふと、思い出してしまった。都希に聞きたかった事。
「柚葉と浮気って……、最後までヤってたのか?」
そう問い掛けると、都希は目を何度も瞬いては、深く溜め息を吐いた。
「…………それ聞いちゃうのか」
都希は流し目で俺に目線を向け、小さく言葉を言い告げる。
「興味本意」
興味本意とは云うものの、実際はキスをしていた写真を見ただけで、身体の関係があったのか、柚葉にも都希にもはっきりと聞いたことはなかった。柚葉は身体だけの浮気をすることが多かったから、そうだと思っていた。
「最後まではしてないと言っておこうかな」
「は? してないの?」
最後までとは……、何処までなのか。触りあっただけとか、キスまでだったとか。俺に隠れて二人で会っていただけとか。
「俺の黒歴史を掘り返さないで欲しい……」
更に深まってしまった謎を、俺は問い返そうとすると、都希は遮りそう言葉を口にした。
「だから……、やっぱり、気になる……しさ」
「ん、そうだよな、ごめん」
「あああああ!!!!!」
いや……、ちょっと待って……、俺。自分の中に、向葵の存在は感じられない。気にして、気になってるのは、紛れもなく、俺だ。
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「え!? な、なに……?」
突然、声を上げてしまった俺に、都希は驚いて、問い掛けてくる。都希と目が合い、俺はその目を離してしまう。目を伏せ、自身の両手で顔を覆う。
「いや……、違う……、ごめん」
都希の問い掛けに対して、俺は顔を覆い伏せたままで、首を左右に振り、否定の意を言い告げる。
「だから……、なに? って、向葵、顔真っ赤だけど……」
都希は俺の手を取り、顔を覗き込まれる。再び目が合うと、都希はそう言葉を口にした。都希の言葉に俺は、自身の頬を両手で覆い被せる様に触る。確かに、熱をもってるのを感じることが出来た。
「……!? あー、なんか変」
柚葉の事気にして……、気にしすぎてるというか……、あー……、大嫌いだったのに……、なんだよこれ。今までは、中の向葵に同調しての事だと思ってた。それなのに……、俺。
「こっちの向葵は素直じゃないんだな……」
俺の意図してる事が、都希は理解出来たのか、含み笑いを浮かべてそう言い告げた。
「うるさい……」
俺は、向葵の気持ちに同調して……、そう思い込んでいた。俺は、柚葉を嫌いになりたい向葵の気持ちが、産み出したもう1つの人格。だから、俺は、柚葉が嫌い。柚葉を気にするのも、苛立ってしまうのも、全部、柚葉を好きな、中に隠れてる向葵の心に同調してるものだと思っていた。
でも、今は向葵の存在が感じられない。だから、これは、大嫌いだったはずの柚葉への気持ち。紛れもない俺の気持ち。
大嫌いな気持ちが、いつの間にか好きに変わっていた俺の気持ち。
俺は、柚葉が好きなんだ…………。そういうふうに俺は、都希の前で好きな気持ちを認めざる負えなかった。
大嫌いだったはずの柚葉が、俺は好き。
「こっちの向葵も、俺を好きにさせればいいんだ……」
そう遠くない前に、柚葉が言っていた。今は、それが懐かしく思ってしまう。
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週に一度の椛さんの病院への通院。今日も何事もなく、治療は終わった。習慣になっていた日常の通院。でも、今日は、いつもと違っていた。病院を出ようと正面玄関に向うと、そこには、見知った人物を目の当たりにする。
「…………」
なんで……、ここに柚葉が?
正面玄関のドアノブに手を掛けて、そのドアを開けようとした時、ドアの外側には柚葉が、今、正にドアを開けようとしていた。
「…………」
お互いに目が合い、暫く無言になってしまう。無言になっていると、柚葉はその場を譲るように、ドアから外へと身体を動かした。出ないとか? とばかりに目線を向けられて、俺は素直に玄関から外へと足を踏み出す。
「えっと……、久し振り……」
病院の外へと出ると、柚葉は病院の中に入ることなく、その場に立ち尽くしていた。俺は思わず、柚葉に声を掛けていた。何と声を掛けていいのか、戸惑ったが、咄嗟に出た言葉はそれだった。
「あ、うん」
「うん?」
声を掛けたが、柚葉からは短い返答が返ってきてしまう。
「…………」
ましてや、柚葉からは、この場を早く立ち去りたい、という雰囲気が醸し出されている。玄関から外に出て、そのまま歩道へと出れるように、柚葉は通路の端へと移動している。このまま、帰れと言わんばかりに俺へと目線を向けてくる。
なにこの、気まずい雰囲気。
「っていうか、なんで柚葉がここに?」
早く行けと言わんばかりだったけど、それよりも、この精神科へと柚葉は入ろうとしていた事が気になってしまって、俺は柚葉にそう問い掛けた。
「……たまたま」
それでも、柚葉の返答は短いままで返ってきた。
「お前、たまたまって好きだな」
「あぁ、うん」
柚葉と会話をしているけれども、柚葉は絶対に俺の目を見ようとはしてくれない。
「……もしかして、気にしてた? 俺言った事」
俺がそう問い掛けると、柚葉は漸く、俺へと目線を向けた。その向けられた目線は、俺を驚いたように、目を見開いて見てきていた。
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目を見開き、何度か瞬かせた後、柚葉が小さく溜め息を漏らしたのが、耳へと届いてきた。
「…………、なんで向葵普通に出来るんだよ……」
「え?」
普通と言われても、どうにかして、話をしなくてはいけない、という衝動が、何故か、胸の中で渦巻いている。それで、話し掛けてしまっていた。話したい、と思っている自分がいるから。
「あ、当たり前か……、今好きなのは俺だけだった」
「…………」
柚葉の言葉が、胸に突き刺さる。好きでいるのは柚葉だけ。今までの俺なら、当たり前だと言い返していたところなのに、それを否定したくとも、素直になれない自分が言葉をつまらせてしまう。
「あと2ヶ月ないな……、卒業式」
「ん、うん」
一度話始めた柚葉は、俺が言葉を詰まらせてしまっていても、次の話題へと続けている。逆に俺は、どう言葉を返していいのか、判らなくなって、俯いてしまう。
「…………もー……」
そんな俺の様子を暫く見ていた柚葉は、溜め息混じりに短く声を漏らした。その声に、俺は驚いて、俯いていた目線を、柚葉へと向ける。柚葉は目を細め、複雑な表情で俺を見ていた。
「え? なに?」
目線が合っていると、柚葉は突如、俺の腕を力強く掴んだ。
「向葵……、こっち来て」
「え、え、え、な、なに?」
そのまま、柚葉は俺の腕を引いて、病院の脇にある、狭い路地へと引き摺られて行く。
「ゆ、柚葉?」
病院の壁と、隣の建物の間の僅かに狭い路地。奥まで行くと、太陽の陽は入らず、日中でも薄暗かった。柚葉に腕を引かれるままに、連れてこられると、壁へと背を押し付けられて、俺は柚葉と向き合う形になる。
「んぅ、ん」
この状態、前にもあった。俺という人格が産み出されて、すぐの頃。その頃と同じで、柚葉が今、俺に何をしようとしているのか、予想が出来た。俺の頬の肌を確かめるように撫でられ、柚葉は愛しそうに俺を見つめてくると、ゆっくりと互いの唇を重ねた。激しく、蝕むようなキスとは違い、ただ触れるだけの、重なりあった口付け。
あ、だめだ……これ、なんか、注がれてくる。柚葉の想いが全部……。俺の素直になれない想いが溢れてくる……、出てこない向葵の想いが俺に蘇ってくる。…………嫌い、柚葉なんて嫌い……、大嫌い……、…………大好き。
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唇を重ねたまま、俺は、自身の頬に生暖かい、涙が伝うのを感じた。溢れ出る感情と、注がれる感情、蘇る感情が、一気に押し寄せてくる。その感情に堪えきれず、涙が溢れ流れた。
「ごめん……、ごめん」
俺の涙は、頬を撫でていた柚葉の手にも伝ったのだろう。柚葉は俺の涙を拭いながら、小さく言葉を繰り返した。
「あ、あやんなっ」
嫌で泣いたわけじゃない、でも柚葉は俺が泣いた理由を、自己的に解釈していた。
「嫌がるの判ってたけど……、ごめん、やっぱり、俺向葵が好きだから」
柚葉は何があっても、向葵が好きで、向葵も何があっても柚葉が好き。この二人の想いは、確かに線で繋がっているのに……。
「ん」
俺は二人の気持ちが、判るくらい判るから、自然と柚葉の言葉に深く頷いていた。
「…………これが最後」
俺が頷くと柚葉は、頬を緩ませ笑みを溢してそう口にした。この狭い路地に、その言葉は俺の耳に木霊するように届いてきた。
「え……?」
柚葉が口にした意味が判らずに、俺は思わず問い返してしまっていた。
「俺、卒業したら北海道に行くんだ」
「…………え?」
「向葵に付き纏うなって言われて、色々考えて」
それでも、柚葉は笑顔を作ったまま、話を続ける。
「…………」
柚葉の口にしている言葉を理解するのに精一杯で、言葉を返す事が出来ない。俺の発した言葉で、柚葉が決めた。そういえば、柊が柚葉は大手会社の内定を蹴ったって言ってた。内定してたのに、変更したんだ。俺の言葉のせいで。
「就職、遠くに決めた、内定ももらえたから、卒業したら北海道に住む」
「…………北海道」
漸く絞り出せた言葉は、その一つで。どうしてそんな……、わざわざそんな……。そんなことばかり頭を、巡らせてしまう。でも、声に出すことが出来なかった。
「だから、もう向葵を追い掛けないから、今までありがとう」
柚葉がそう言い切ると、俺は、頭の中が朦朧として、足の力が抜けていった。
確かに、向葵と柚葉の想いは繋がっているのに……。
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「向葵って……、俺の事本当に好き?」
浮気を始める前の柚葉に、俺はよくそんなことを聞かれた。
「え? ん、うん」
聞かれる度に、照れ臭くって、濁したようにばかり答えていた。あの時の俺には、気持ちを言葉にするのは、とても難しい事だった。
「俺が聞かなくても、向葵から言って欲しいな……」
「んんんんんん」
「え? そんなに悩む事?」
言葉にしないことで、柚葉を不安にさせたり、不満を抱かせたりしてた。そんなことも、判らなかった。ただ、自分の気持ちを言葉にするのは、難しくて、それでも努力をしようとしなかったのは、あの時の自分だった。
「……恥ずかしい」
「……そうか」
言えなくて、恥ずかしいと答えると、柚葉はいつも哀しげな表情を浮かべてた。そんな顔をさせたいわけじゃない、でも恥ずかしい気持ちは変えることが出来なかった。
「好き……」
「ごめん、無理言わないから」
それでも、絞り出して言っても、柚葉の不安は拭えなかった。拭えては、いなかった。言葉にしないといけない理由が、俺には判らなかった。だから、言えない言葉があることに、俺は些細な事にしか思ってなかった。気持ちがあればいいと思ってた。でも、柚葉はそれに対して、少しずつ不安を積もらせていっていたんだ。
「好きだもん」
「うん、ありがとう」
つもり積もった不安は、柚葉が俺を試すという行動に出てしまった、原因だったのかもしれない。
「俺の知ってる向葵は……、自分よりも他人を一番に考える子で、好きな人が一緒でも身を引こうとする子」
向葵を想って離れる事を決めた柚葉、好きという気持ちが苦しくなって逃げてしまった向葵、それでも、二人の想いは繋がっているんだから。
お前の大好きな柚葉……、遠くに行っちゃうぞ、ほら、起きな……、向葵。俺に対して身を引いている場合じゃないだろ……、起きろ、向葵。
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