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第2話

 人生において一番厄介なのは地元ではなく、己の過去の記憶だった。  幼少期のではなく、紛うことなく前世の記憶。毎日のように知らない人間の、鮮明な記憶を見せられる。穏やかな日常風景に憎悪、嫉妬、流血、性交が入り混じる夢は、一桁に見たない年頃には重たくのしかかった。  運が悪いことに、地元は前世の自分の生まれた土地だった。学校に行く道すがら、大昔の映像がフラッシュバックしては、いても立ってもいられなくなる。  刺激が強すぎる夢に魘される日々を過ごすうちにある決心をした。  夢は夢。俺は俺の人生を歩もう。  前世に引きずられていいことなんてないのだから。 「実継」  凛とした声が春の突風に乗って耳に届いた。覚えのある名前に、思わず声のするほうを振り返った。  真っ赤な髪の男がよくわからない彫像を背に仁王立ちしていた。  今朝、スクランブル交差点で見た真っ赤な髪が風に弄ばれている。  どうしてここに。 「聞いてんの、実継くん」  前世の、今世では誰も呼ぶはずのない名前。折り合いをつけてきた心をぐちゃぐちゃにされている気になる。最悪の気分だった。  僅かに後ずさって逃げようとして、強い意志を湛えた瞳の美しさに思わず息を飲んだ。  すらりとした体躯、目を見はるほどあざやかな赤髪、手にはアタッシュケース。  年相応の見た目に反して老成した表情は妙に不気味だ。 「俺の名前は宇月昴流だ。そんな名前ではない」  声がひっくり返りそうになるのを必死で抑える。 「はいはい、昴流ちゃんね」  ふざけた呼び方に眉間に皺が寄る。軽薄さが腹正しく、しかしその感情が今の自分のものなのかは定かではない。何しろ、今の世で昴流をその名で呼ぶ人間はひとりしか思いつかない。  今朝必死になって逃げたのに、最悪の再会だ。 「久しぶり」 「……ああ」  姿形、声、視線の温度、何もかも違うが、本能が男を拒絶する。その根底にあるのは、耐えがたい憎悪だった。  抱えるには大きすぎる、どろどろとした憎しみの塊。この憎しみの出どころを、昴流は知らない。いくら前世の夢を見ても、実継という男を理解することはできない。ただ昏い目をする男への憎悪だけが夢を通じ、真綿で首を締めるように昴流の人格に染みついた。それが実継のものだとわかっていながら、染まりきる他なかった。  死ぬほど仲が悪かった。比喩ではなく、本当に、死ぬほど。 「名前は」  敵のことは詳しく知ろうとする過去の習性が勝った。それは使命感にもよく似ていた。 「月尾大輝。経済学部二年。これからよろしく」  さらっと握手を求められ、思わず握り返す。  同じ大学、同じ学年。同じように前世を覚えている。  なんという呪いだろう。あれほど憎しみあっていたのにまた出逢ってしまった。 「講義あるから行くわ。また今度」  今度があるのかと絶望しながらも、月尾の手を握りしめて俺は硬まっていた。  お前もあの夢を見たのか、という問いが喉の奥でつっかえる。  聞いてしまったら、もう折り合いをつけられないような気がして。 「昴流ちゃん?」 「あ、すまない」  無理やり笑みを浮かべて手を離す。  月尾は不思議そうに俺を見つめ、ちょっと笑った。  手をひらひら振って去っていく後ろ姿を見送ったあと、なんだか泣きそうになって慌てて上を見る。幼い時からの涙を堪える癖だった。  月尾に笑いかけられて救われた気になっているのは何故だろう。  そういえば、あいつはいつも空を見上げていた。  あの頃は田んぼの畦道で。今日はスクランブル交差点のど真ん中で。  空を見上げて、何を思っていたのだろう。  夢のことすら聞けないのに、何を聞こうと言うのか。  涙の代わりに溢れた自嘲は、春の空に溶けていった。

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