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第4話

 重たい雲が雨を降らせている。  誰かが今日から梅雨入りだと言っていた。  湿気のせいで呼吸さえ煩わしかった。地元より都会の方が梅雨は厳しい。二度目の梅雨に慣れそうにもなく、乾かない洗濯物を思い出してどんどん気が滅入っていく。  昴流はとぼとぼと敷地内を移動していた。  これから受けるはずの午後一の講義は休講で、講義室のドアの貼り紙を見て思わず悪態をつくところだった。  誰か教えてくれてもいいのに。  不特定多数に文句を言いながら、カフェで時間でも潰そうとしていた。  近道をするために中庭を抜けようとすると、人がいた。普段人を見かけない中庭に誰かがいることが珍しく、好奇心がつのる。  雨宿りのつもりなのか、木の下で傘を差さずにしゃがみ込んでいる。  白いトレーナーは濡れて灰色になっていた。足元には段ボールがあり、その人はそれを覗き込んでいる。口元が何か動いているが、雨の音で何も聞こえなかった。  鞄の中に予備の折り畳み傘があることを思い出してた。 「あの」   声を掛けて驚いた。  濡れ鼠の正体は大輝だった。  目も覚めるような赤髪は、濡れて黒っぽくなっていた。わからなかったのはそのせいだ。 「え」  互いに驚いている間にも、雨は降り続けている。雨粒が冷えた蒼白の肌を叩き、トレーナーに吸い込まれていく。とりあえず鞄から傘を取り出して渡した。  いつも逆立っている前髪が額に張りついている。髪を下ろした途端に現れた幼さに少しだけ動揺した。  憎き男に萌えを感じてしまったことに自己嫌悪していると、にゃー、と小さな声が聞こえ た。段ボールの中を見ると子猫が所在なさげに鳴いている。 「猫?」 「さっき拾っちまって」  渡した傘を差さずに子猫を撫でている。濡れた手に少し毛がついていた。 「アレルギーの人もいるし、校舎の中にはいれらんないから」 「ああ……」 「でもどうするかな……うち、猫飼えないんだよな」 「なんで拾ったんだよ……」  呆れて言ったが、大輝は肩を竦めただけった。 「……友達に声掛けてみるわ」 「……手伝おうか、飼い主探すの」  大輝が勢いよく昴流を見上げた。その勢いの良さに思わず後ずさる。自分でも何故提案したのかわからないでいる。 「いいのか」 「いいよ。次の講義までなら」 「サンキュ」  屈託のない笑顔を向けられて狼狽た。大輝のそんな顔は見たことがなかった。昴流を見る大輝はいつも嫌味でいっぱいだった。  素の大輝が明るくて屈託のない男だとしたら、昴流を見るあの目は光貞のものなんだろうか。  飼い主探しは難航した。  大輝はメッセージアプリで、昴流は校舎を歩いている人に声をかけた。  ペット可のアパートに住んでいる学生もいたが、飼い続ける可能性が薄かった。  結局、昴流は律に代返を頼んで講義をサボった。 「わかっちゃいたけど難しいな……」  敷地内の隅のほうで見つけた東屋で、子猫と一緒に雨宿りすることにした。  湿った空気が肌に纏わりつくのが気持ち悪い。大輝は誰かからジャージを借りて素肌の上に着ている。変態くさいな、と思っていたら察したらしい。「そんな目で見るな」と怒られた。  子猫を抱えて項垂れている大輝のつむじを見ながら、大輝は自分が住んでいるアパートの契約を思い出していた。  無意識に自分を飼い主候補から除外していた。  思い返してみれば、隣人が猫を飼っていた。一度脱走してしまい、探すのを手伝ったことがある。今の今まですっかり忘れていた。 「……猫、飼えるわ」  大輝はぽかんと口を開けている。雨の音で聞こえなかったのか、ともう一度繰り返した。ハッとした顔をすると、ぶんぶん首を横に振った。 「猫飼うのって大変なんだぞ。躾とか、餌代とか!」  突然生き物を飼う難しさを語り出した。今まで誰にも言わなかったくせに。  俺には飼ってほしくないのか、と思いながら追い討ちをかける。 「じゃあ、元の場所に戻すか?」 「う……それは……」  ぐう、と押し黙ったつむじに勝ち星を見た。 「実家が猫飼ってるし、仕送りの他にバイトもしてるから大丈夫」  困った様子で昴流を見る目は、迷子のこどもにそっくりだった。  うろうろと視線を漂わせ、少しの間地面を見つめると「頼みます」と小さい声で言った。  これからともに過ごす小さき相棒に手を伸ばして小さな頭を撫でた。気持ちよさそうに目を細めて喉を鳴らすのが愛らしい。 「名前つけてくれよ」 「俺?」 「おまえが拾ったんだし」  大輝はしばらく子猫をじっと見つめている。考え込んでいる時の癖なのか、きゅ、と唇を噛んでいる。ふと、王様ゲームの時のキスを思い出した。唇が触れた瞬間にふに、と形を変えるやわらかさと、啄んだ時に滲んだ唾液の感触。  舌、突っ込んでみたいな。  やましい妄想を始めた時、突然大輝が叫んだ。 「まろひこにしよう!」  子猫をたかく持ち上げて宣言した大輝は実に満足そうだ。反応しかけたものをさりげなく鞄で隠しながら、まろひこたる由縁を尋ねる。 「まろはマシュマロのまろだ。なんかめっちゃ柔らかいし、ふわふわしてるから」 「だいぶ黒っぽいけど」 「黒ごまのマシュマロだってこの世にはある」  でれでれと子猫に甘えているのを見ていると、ふいに口をついて言葉がこぼれた。 「うちに触りに来てもいいよ」  大輝の瞳がまあるくなって、そして笑顔が弾けた。 「ありがとう。ぜひとも行かせてくれ」 「あ、ああ……」  眩しい笑顔に思わずたじろぐ。 「あ、でも家遠いんじゃないの」  きっと春に駅の近くの交差点にいたことを思い出しているのだろう。 「歩いて帰れないことはない」 「そっか」  うんうん、とひとりで頷いた大輝は何かを決心したように昴流を見た。 「餌とか、トイレとか買うの手伝うよ」  あどけない目にそわ、と足元が揺らいだ。眩暈さえ覚えた。それが錯覚だということにも気がついていた。  こわい。  憎い相手が唐突に可愛く見え始めたことに。  認識の変化に感情がついていかない。  一瞬でも気を抜いたら自分がばらばらになりそうだった。 「……いらないよ」 「……そっか」  大輝もまた、昴流の拒絶を正しく受け取った。  子猫を抱きしめた大輝のアホ毛が揺れている。  雨で濡れた髪は乾き、元気な赤色に戻っていた。     

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