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第10話 自覚したなら走るだけ 2

 眞樹が叫ぶと、春希は黙った。 「あいつが、そうおまえに言ったのか」  絞り出すように言う。 「――言ってない」 「じゃあ何でおまえが決めつけるんだ」  春希のかすれた声を聞き、眞樹の頭からすうっと血が降りた。  余計なことをした自覚はあった。まずい。いくらわからず屋に言い聞かせるためとはいえ、こんなこと他人が言うべきじゃない。  春希の繊細な顔が冷たく凍るのを、眞樹は苦々しく見つめた。後悔が胸をじくじくと刺してくる。 「……ごめん」 「他人の気持ちなんて誰もわからないのに」 「……うん」 「プライベートな感情を勝手に憶測して」 「……うん」  本当にそうだ。正当な怒りを見ていられなくてゆっくりと俯く。  本心を聞いてもないのに先回りして、彼の気持ちを伝えた気になって、何をやっているんだろう。  もっときつい言葉が来るのを受け止める覚悟を決めたとき、春希がかすかに息を吐いた。 「は、……」  あまりに頼りなく細い声に、訝しく思って顔を上げると、春希は苦笑していた。眞樹は絶句した。 「はは、――……まあ、そうだよな。そんなこと、」  吐息のように春希の想いが唇からこぼれる。彼の表情からかすかな落胆を感じ、眞樹は椅子から立ち上がった。  考える間もなかった。 「馬鹿兄貴! 行って来いよ」  ぶわっと体中に血が巡り始める。  一瞬、春希は眞樹が謙二郎の気持ちを聞いていたのだと誤解した。良いようにとってしまった自分を抑え、それでも気持ちに歯止めが利かず、思い違いだとわかったら、がっかりしているのだ。  そんなに大事なのか。  そりゃそうだ。大事じゃないはずがない。彼が命をかけて守った相手だ。  ぐるりとテーブルを回り込むと、思いっきり腕を取って引っ張る。 「やめ、眞樹!」 「行って来いよ! 謙ちゃんの家、自転車で行けるだろ。貸してやるから!」  引きずり上げられるように春希は立たされ、よろめいてテーブルに手を付いた。 「やめてくれ。行けるわけがないだろ!」  ほとんど悲鳴のようだった。足がもつれて眞樹の体にぶつかってくる。こんなに簡単にバランスを崩すようになったのも、ぶつかって受け止められるほど体重が軽くなってしまったのも、すべて、彼が。 「わかってる。でも」  春希から言えるわけがない。  それはそうだ。負い目のある謙二郎が、春希からの頼みを聞き入れないはずがないだろう。春希から好きだと言ったらただの強制になってしまう。この兄がそれを自分に許すはずがない。  だけど謙二郎からしたら、将来を奪ってしまった相手に、好きになってもらえるような望みなんて抱けるはずがないと、諦めてしまって言えるわけがないのだ。  だから。 「兄貴が言わないとどうしようもねえだろ!」 「……、嫌だ」 「そんなこと言ってたら、いつか誰かに取られるっての」  今はこうでもいずれは謙二郎だって諦める日がくるかもしれない。時間がすべてをあやふやにしていく。会わなくなればなおさらだ。  遠くで彼が別の人と幸せになったのだと風の噂で聞いて、自分たちは我慢できるのだろうか。 「女が寄ってくるだろうし、違う職場に行けば親友だってできるかもしれない。兄貴の代わりなんてどこにもいるんだ、でも」  お互い相手を想いすぎているだけなのに、それもいずれは消えてしまう。  自分たちも落ち着いて、近くの相手を大事にするようになるかもしれない。だけど、本当にそれでいいのか。 「足を犠牲にしてまで守りたかったやつなんだろ。逃がすなよ」  よろめきながらも体勢を立て直し、春希は眞樹の手を振りほどいた。 「そうだよ。だからこそ、俺から距離を、取る、つもりだったのに……」  テーブルの上を滑っていた手のひらが、ぎゅっと握られた。拳が血の気を失って、白い肌がますます白くなる。 「……そうだ。俺が守ったんだ……」  絞り出すように春希は呻いた。 「そうだよ。兄貴が」  高校生がふたりで歩いていて、カーブを曲がりそこねた車が突っ込んでくる。春希は謙二郎を突き飛ばした。  咄嗟に体が動いてしまうほど、彼のことが好きだったくせに。  春希はゆっくりと力を抜いた。そのままへなへなと床に座り込む。寄り掛からせていた体を追って、眞樹もしゃがんだ。変な倒れ方しなくて良かった。 「――大丈夫かよ」 「ん……」  はああとため息をついてうなだれる。整ったつむじと、白くて滑らかなうなじをさらしていたが、すうっと背筋を立て直した。  たったそれだけだったのに、薄くなってしまった春希の身体に、じわじわと活力が満たされていくのを感じた。  今までの軽薄な空気がかき消えて、ちりちりと好戦的でトリッキーな動きをする、かつての彼が戻ってくる。  失恋か。  眞樹はふふっと笑った。どっちもこっちもフラれてばかりだな。まあいいか。苦々しい想いを押しのける。  自分だけじゃない。駿介も失恋確定だろうから。 「ちょっと、こっち」  何度か深い呼吸をしてから、春希が指で呼びつけてきた。  何事かと体を近づけると、春希の両腕が回ってきてぎゅっと引き寄せられた。強く抱きしめられてしまう。 「うげ、やめろよ」 「大好き」  耳元で熱烈にささやかれて、吹き出す。 「あのなあ、それ、俺に言う台詞じゃないだろ」 「そうか。そうかも。ちょっと出かけてくる。ごめん」 「はいよ」  立ち上がって春希はちらりと視線をよこした。わずかに心配そうに瞬いて、だけど何も言わずにそのままダイニングを、そして玄関に置いてあった自転車の鍵に付いている鈴の音をさせて出ていった。  ごめん、か。  一体何についてだか。眞樹は両ひざを抱えて座り込み、しばらくじっと動けなかった。

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