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#6 麒麟山のα
「ミナージュ!大丈夫?ミナージュ」
「……っ……青香……」
「具合悪いの?!大丈夫?!今、青碧哥哥を呼んでくる!!」
いつの間にか、床の上で意識を無くして倒れ込んでいたらしい僕は、青香の悲鳴めいた声で底なし沼の泥の中から、明るい世界に引き戻された感じがした。
………そうか、僕。
白華の運んできたシヴァの帯で、発情期のような状態になってしまって………。
でも、まだ………全く治ってない。
体も心も凄く苦しい。
体が熱くて震えて、立つこともままならないから、自分で寝台に移動する事すらできないんだ。
「……待って………青香………お兄様は、アルファ………?」
つい。
青香の動きを制すように、その風になびく袖を掴む。
「うん!!優しくて強いアルファだよ!!青碧哥哥なら、きっとミナージュを助けてくれるよ!!」
「あ………ま、まって………」
青香は僕を安心させるように、緑柱石色の目を細めて笑うと、僕の力の入らない手を振り解いて部屋から出て行ってしまった。
………どうしよう。
小碧が番のいないアルファなら、オメガの発情期に反応してしまうかもしれない。
………今まで何不自由なく、オメガならではの危険な目にも特段遭わずに生きてきたから………。
シヴァに守られて、甘えて………。
自らが引き起こした発情とはいえ………。
シヴァがいないと、自分自身を守り切れる自信が皆無だ。
………お腹に稚児も、いるというのに。
稚児を危険な目に合わせる位なら、僕は………。
「何をしている!!」
部屋に入ってくるなり、風を纏うような嫋やかな袖で鼻口を塞ぎながら、小碧が大声で叫ぶ。
「来ない……で。………それ以上、近付いたら………死ぬ」
柔らかな絹の織物でできたシヴァの帯を、首飾りの下に滑り込ませるように。首にぐるっと回して、僕はその両端を手で力を入れて握りしめた。
「やめないか!!」
「来ないで!!」
ありったけの力を腹にいれて叫んだ僕の声は、小碧の隣にいる青香の小さな体を震え上がらせるほど、大きく強く部屋を突き抜ける。
「お願い………来ないで………。小碧、番はまだいないんでしょ………?………僕の匂いが、嫌悪する程苦しいでしょ………?………来ないで………。僕には………稚児がいる………だから………だから………」
………多分、もう僕は限界だったんだ。
体力的にも、精神的にも。
しばらくの間、ずっと発情に耐えて息も体も苦しくて………シヴァに会えない辛さが重なって。
こんなにオメガであることを、自分が嫌になるくらいオメガである事実を突きつけられたことはない。
抗えない、自分自身で受け入れなけばならないことなのに………。
涙が、でる。
「僕を帰して…………。やだ………もう………。助けて………。誰も………来ないで………」
僕の目の前の風景が断片的に、まるで一枚の絵が次々と目の前に現れては消えるようになって………。
夢か現か。
意識が混濁していく。
誰かに体の内側を弄られている感じがしたり、優しく汗を拭ってくれる感じがしたり。
それでも僕の発情は治らなくて、その発情は僕を支配するかのように、何もかも蝕んでは僕を僕でなくしていく。
愛しい人の名前も、笑顔も、ぬくもりも、全てが有耶無耶になる。
そして…………僕は、単なる発情したオメガになったんだ。
それでも、口に出さずにはいられなかった。
口に出さないと忘れてしまいそうで、ミナージュという僕の存在も、愛しい人の存在も。
「シヴァ…………助けて…………シヴァ………」
✳︎
白華がミナージュの髪結の紐を持って帰ってきた。
極彩色の艶やかな、そして梔子の強い香りがする紐。
………ミナージュが、とりあえず無事ならいい。
ただし、場所がいかんせん悪すぎた。
白華が高い空から急降下した場所と、空高く舞い上がった場所。
………青龍の王宮だ。
書房に行ったはずのミナージュが、何故王宮にいるのか皆目見当もつかないが、今回の白虎訪問が一枚噛んでいることは、揺るぎないくらい間違いではなさそうだ。
しかし、なんでミナージュが………。
白虎に嫁いだシジュの兄弟というだけで、白虎とは何ら関係もないミナージュが、どうして拐かされなくちゃならないんだ。
くそっ………。
ちゃんと、守れたはずなのに。
自分に対する不甲斐なさと、ミナージュに対する申し訳なさで、立っていられるのがやっとなくらい、怒りが込み上げる。
〝大丈夫だよ、シヴァ。安心して〟
紐から漂う梔子の香りが、そう言うミナージュの声を乗せているかのように………。
湧き上がった怒りをスッと沈めて。
たまらず俺はその紐を離すことができず、腕に幾重にも巻きつける。
ミナージュの存在を肌で感じて、近くにいるように………実物が側にいないミナージュの全てを逃さないために、手中に収めたかったんだ。
「ひょっとしたら、僕と間違えられたのかも……」
白華の一連の行動を共に観察していたシジュが、いつになく青い顔をして言った。
「僕たち自身は似てないと思ってるんだけど、他の人が見たら十中八九、そっくりだと言うし………。白虎に嫁いで幾ばくか、その婚姻生活が順調である僕を、青龍の王族が好ましく思っていないのも事実だ。いくら僕が青葵様の事を言っても、それが真実だと思ってもらえないかもしれない。………シヴァ、僕………青龍の王宮に行ってくる……!!」
「今そんな事をしたら、シジュ殿の命どころかミナージュの命ですら危ない。大丈夫。ミナージュは生きてるから」
「でも………!!」
「大丈夫。俺はミナージュの番だ。片方に何かあれば、きっと俺にだって何か虫の知らせがあるはずだから………大丈夫」
「………ごめん、シヴァ。僕が関係のない二人を巻き込んだばっかりに………。本当に………申し訳ない………」
いつも穏やかで冷静なシジュが、ミナージュによく似た黒曜石のような瞳を揺らせて、今にも泣きそうに唇をキュッと噛みしめる。
ミナージュもそうだけど、シジュもそう。
この兄弟はいつも明るくて、穏やかで。
涙とか悲しみとか、そういうのとはもっとも遠くにいる人たちだと思っていたのに。
番とはまだ別の………血を分けた兄弟の繋がりが、互いの事を思って涙するんだ。
…………俺には、そんな存在はいない。
物心ついた時には、俺は麒麟山でシュヌに育てられていて………自分の正確な出自すら分からない。
それはそれでよかったんだ。
浮世離れしたシュヌは、だいたい俺の好きなようにさせてくれて見守ってくれるし、宝石を売りながら垣間見る家族や番の在り方なんて、柵が増えるだけだと思っていたから。
〝シヴァはシヴァ!唯一無二のシヴァ!大好き!!〟
そんな俺を変えたのはミナージュで。
そう言ってくれたのはミナージュだけで。
〝要らない〟と片意地を張っていた家族と言う存在を、本当は欲っして止まなかった番という存在を、ミナージュという存在で一気に手に入れたんだ。
「予定どおり。青龍の王宮には明朝、参内しよう。大丈夫だ。いつもどおりのシジュ殿なら、きっと事態は好転する。…………その代わりと言ってはなんだが、俺も付いて行っていいか?」
俺を見上げたシジュのその顔が、ふと柔らかな笑みをたたえる。
………その表情がどことなくミナージュと重なって、俺は全身に力がみなぎる感じがした。
「シジュ殿が謁見している間、俺はミナージュを探す。ミナージュのことは俺に任せて欲しい」
「………分かった。シヴァ、ミナージュを頼んだよ」
厳かに、広大に、青龍の王宮は他の侵入を容易にさせない。
一度、後宮に住う姫君たちに宝石をおろしに行ったことはあるが………。
難攻不落。
ここでミナージュを見つけるのは、針の穴をとおすが如き妙手だ。
………大丈夫だ、集中しろ。
ミナージュの香りをたどるんだ。
アミーユとシジュ、俺を含んだ白虎の訪問団はすんなりと青龍の王宮に入る事を許されて、奥にある謁見の間に通されてる。
しかし、ずいぶん警戒をしているのか。
一行の四方に護衛がつけられて、回廊から逸れることすら許されない状況だ。
………ミナージュを、探すどころじゃない。
けど………謁見の間に近くにつれ、ミナージュの梔子の香りが強くなっていく。
………ミナージュは、発情してるのか?
現に俺の前を歩くアミーユが、何かに耐えるようにその表情を歪めて、拳を強く握りしめている。
「アミーユ殿、平気か?」
「………あぁ、大丈夫だ。ハーレンとリューンので慣れてる。これしきのことで理性を奪われる程、白虎の男は柔じゃない」
「香りは変わってるけど、ミナージュの香りだ。………シヴァ……」
「………大丈夫だ。俺がミナージュを救い出す」
ほどなくして、立派な竜の浮き彫りがほどこされた謁見の間に通ずる扉が目の前に現れて………俺は確信した。
この奥に、ミナージュがいる!!
探すまでもなく。
おそらく白虎との交渉の切り札としてミナージュを使うべく、ここに連れてこられたに違いない………発情中にもかかわらず。
俺は、腕に巻き付けたミナージュの香りが残る紐をギュッと握りしめた。
ゴッー、と。
鈍くて重い音がして。
重厚な扉が開くと、中から濃厚な梔子の香りが溢れ出した。
アミーユがたまりかねて、袖で顔を覆うと、体ごと正面から背けてミナージュの香りを回避する。
全体的薄暗いものの、赤を基調とした大きな柱が、絢爛豪華な彫刻を施したその高い天井を支えて、入るものを拒むかのような威圧感ある。
青龍の謁見の間。
………ミナージュ!!
思わず声を………叫び声を上げてしまいそうだった。
謁見の間の奥、台の上にミナージュが横たわっていたから。
首に俺の帯を巻いて、荒い呼吸と紅潮した顔で。
止めどなく続く発情に意識をなくしたであろうミナージュが、そこにいる。
………ドクッ。
心臓が、強く鼓動して………。
………今すぐ、ミナージュの体にむしゃぶり付きたい衝動に駆られた。
「………シヴァ。大丈夫か?」
「………あぁ、大丈夫だ」
そんな白虎の様子を嘲笑うかのように、ミナージュの横に立っていた男が口を開く。
威厳のあるその声は、謁見の間に深く響いて、俺の胸に深く突き刺さった。
「ようこそ、白虎の王族の方々。お待ちしおりました。私は青龍国王・青蒼の名代、第一王太子の青碧と申します」
すでに、この交渉の舵を握ったかのような、青碧と名乗った男の………冷たい緑柱石の瞳を。
俺は一生、忘れることができないと思った。
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