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王宮編 1

 宮前幸は日本の高校に通う平凡な男子だった。自由な校風の高校だったが、髪を染めるようなことはせず、生まれつきの黒髪で学校生活する幸は、教室では目立たず自分の席で本を読んでいるような生徒だった。いじめられているわけではないが、まるで空気のような存在。それが宮前幸という人間だ。  そんな幸とは対照的な存在が、宮前歩。幸の1つ下の弟だった。弟と言っても血の繋がりはなく、早くに両親を亡くした幸のことを、歩の両親が引き取ってくれた。  歩は品行方正、運動神経抜群、学力優秀で、クラスでは誰もが憧れる完璧な人間だ。美人な彼女がいて、誰に対しても平等に接し優しい……幸を除いては。  学校においては仲の良い兄弟を演じているが、実際には幸と歩の仲は冷え切っていた。家において、歩と言葉を交わすことなど皆無と言って等しい。会話したとしても「邪魔」「どっか行け」など歩の一方的な言葉ばかりで、言葉をキャッチボールすることはない。  しかし幸は、歩にいくら邪険にされても決して怒ることはない。言い返すこともしない。歩が幸を鬱陶しがる理由を、幸は勘付いているからだ。それは、幸が歩から両親の愛を取り上げてしまったから。本当なら100向けられていたはずの愛情を、幸が半分奪ってしまった。歩の両親は血の繋がらない幸を、本当の子供のように扱った。それは幸にとっては幸福だけれど、歩にとってはそうではない。何もかもにおいて1番であり続けた歩が、唯一1番になれない……それも最愛の両親の1番に。それがどんなに悔しくて恨めしいことか、幸は理解できなくとも想像ができる。その感情の原因が自分にあるという負い目があるから、幸はなにも言わない。家でも学校でも、出来る限り歩の目に触れないように、ひっそりと過ごす。これがただの高校生である幸にできる唯一だった。  異世界に来ることになったあの日、残暑の蒸し暑い、放課後だった。今思えば、いつもは部活で忙しい歩と、帰宅部の幸が校門で出会った時から、何かがおかしかったのだと思う。幸がエレベーター式の中学校に入学して5年。歩と同じ校舎に通い続けて4年。その4年間、1度たりとも放課後に出会うことなんてなかったのに、なぜかその日は同じ時間に、校門に立っていた。 「……歩」 「まじ最悪」  歩の舌打ちに、びくっと体が跳ねる。  歩は鬱陶しそうに踵を返し、つま先を踏み出した。その先の地面が、突然ぽっかりとなくなったのを幸は目の当たりにした。 「え――」  驚いた歩の声が、暗い穴の中に吸い込まれて消えて行く。歩が穴の中に落ちていくのを見た瞬間、なにも考えずに手を伸ばしていた。歩が伸ばした手を、かろうじて掴む。しかし運動もなにもやっていない細い幸の体では、筋肉のついた歩の体の重さに耐えることはできず、そのまま一緒になって穴の底に落ちていった。  気がつくと、足の底に地面を踏む感触があった。恐る恐る目を開けると、そこはひらけた、明るい空間だった。天井は見上げるほど高く、壁も床も真っ白。窓はないがいくつもの燭台が部屋を明るく照らしていた。幸は高い台のようなものの上に立っていて、目の前には30段はありそうな、まっすぐ伸びた長い階段。その台の周りは堀があり、透明な水がたっぷりと溜まっている。その水を越えた先の床で、見慣れない格好をした人たちが驚いた様子で幸を見上げていた。 「んだよ、これは…」  隣から呟く声が聞こえて、幸は勢いよく振り向いた。隣には歩がおり、呆然とした目をしている。幸のことには気付いていないようだったが、視線を感じたのか、歩が幸を見る。戸惑いの表情が、見る間に嫌悪に歪んでいく。 「お前――」 「神子が御降臨なされた!」  歩の言葉を遮って、興奮して上擦った声が室内に反響した。その大声と共に、床下にいる人々が一斉に床に手をつき、頭を下げる。その姿はまるで、幸たちを敬って平伏しているようだった。  異様な光景に、歩も、もちろん幸も声が出なかった。一体何が起こったのか理解できず狼狽えている内に、人々が顔を上げる。20人ほどいる人たちの先頭にいた男が立ち上がり、声を張った。 「謹んで申し上げる。わたくしは神聖ライトン王国、中央大教会、大司教サイルダでございます。神子様の御降臨、そして我が主の恩寵を頂きましたこと、誠に恐悦至極に存じます」  聞き慣れない単語の連続に、幸は付いていけず狼狽た。歩に視線を向けると、歩はじっと彼らを見つめていた。先ほどまでの動揺は幻かと思うほどその表情は静かで、何を考えているか読めない。 「神子様におかれましては、突然の御降臨に驚かれていることと存じます。しかし御安心あれ! 我等は神子様を命に代えて守ることはせど、害することは決して致しません。全てお話させて頂きますので、どうか此方へ!」  そう言って男は腕を前に出す。その手は対岸の床を指していた。こちらに来いと言われている。歩、と声にするよりも早く、歩は彼らに向かって歩き出していた。  なぜそんなに落ち着いていられるのだろうか。歩はまるで、自分がなぜここにいるのか、ここはどこなのか、彼らは誰なのかを、全て知っているようだ。  幸は突然、自分が1人ぼっちになったような感覚に襲われた。恐ろしくて動けない幸のことを、歩は振り返ったりしない。そうしている間にも歩の背中はどんどん遠ざかっていく。得体の知れない何かに飛び込む恐怖より、1人この場に残される方が怖くて、幸は慌てて歩を追いかけた。

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