扉の外から歩の声が聞こえたような気がしたのは、日付が変わる少し前の真夜中だった。 「歩？」 　扉の外に向かって声をかけてみても返事がない。でも確かにあの声は歩だった。 　幸はベッドから降りてカーディガンを羽織ると、扉を開けた。しかしそこには誰もいなく、廊下はシン、と静まり返っている。いつもならいるはずの護衛の兵士すらなぜかいなかったが、理由を深く考えるようなことはしなかった。 　向かいの歩の部屋をノックする。それから名前を呼んでみても何の返事もない。逆に静か過ぎて、不安になった。勝手に開けるなと怒られるかもしれないが、思い過ごしならそれでいい、と幸はドアを引いて中を覗いてみる。 「歩⁉︎」 　そこで見たのは、ベッドのそばの床にうつ伏せで倒れている歩の姿だった。血の気が引き、慌てて駆け寄る。扉のそばからは見えなかったが、歩の周りには割れた花瓶の破片や花が散乱していて、まるで誰かに荒らされた後のようだった。 　急いで歩を抱え起こすと、「うっ」と歩が呻き、目を開けた。どこも怪我をした様子はないし、意識が戻って安心する。しかし歩の顔色は何かに怯えているように青白かった。 「歩、大丈夫？　何かあったの？」 「さ、さっき……誰かが、部屋に来て、お、俺を…襲おうと……っ」 　歩は恐怖で舌がうまく回らないようだった。 「今、誰か呼んでくるからっ」 「まって幸！　1人にしないで！」 　立ち上がろうとした幸の服の裾を歩が掴まえる。歩は見たことがないくらい怯えていた。 　歩は完璧で誰からも羨ましがられるような人間だが、この子はまだ16歳なのだと思い出す。初めて命を狙われて、どれだけ怖かっただろう。こんなに怯えている歩にそう言われて、置いていくことなんてできない。 「あ、あそこから、逃げて行った……でも、まだいるかも」 　歩がバルコニーを指差す。 　幸は兄としての責任感に突き動かされて立ち上がった。視界の端に短剣が映る。考えるよりも早く、その剣を手に取った。なぜこんなところに剣があるかなんて思う暇もなかった。 　刃が20センチほどの短剣を構え、幸は息を殺してバルコニーへ出た。足音を忍ばせて進み、頭上や、バルコニーから身を乗り出して下も確認する。しかし運よく、人の気配はどこにもなく、近くの木々が風でさざめいているだけだ。とにかく敵が戻ってくる前に窓を閉めてしまおうと、幸は部屋の中へ戻った。窓の鍵をしっかり掛け、カーテンを引く。 「大丈夫、誰もいないみたい。念のためサイルダさんに報告――」 　次の瞬間、ドッ、と何かが体にぶつかって来た。 「恨むなよ、〝にーさん〟」 　耳元で歩が囁き、1歩、2歩と後ろに下がる。何が起こっているのか理解できずにいる幸の視界に、鮮やかな赤が散った。白い大理石の床に花が咲くようにして、まばらに血が垂れる。点々とする血の道を辿っていくと、白い寝巻きを纏った歩の腕がざっくりと切れ、幸の持つ短剣が血でべったりと濡れていた。 「あ、歩……？」　 　今度は幸が震える番だった。一方の歩からは、先ほどまでの表情は消え去っている。代わりに不気味な笑顔でにんまりと笑っていた。 「アユム、君から寝室に呼んでもらえるなんて嬉――」 　その時、部屋の扉が開いた。ハッと、視線を向けた先にいたのはアインだった。 「アイン！　助けてっ」 　いち早く歩がアインの元まで走り、その胸の中に逃げ込む。そして怪我をしていない方の手で幸を指差し、言った。 「あいつが突然っ、俺を襲って来て……っ！」 　嵌められた――そう気づいた時には、アインに床に押さえ付けられていた。腕を捻り上げられる激痛に、呻き声が漏れる。 「貴様っ、アユムになんてことを！」 「ち、違います！　俺は歩を助けようとして……っ」 　信じられない気持ちで歩を見上げると、歩は涙を流して震えていた……泣き真似をしている。 「アユムの言う通り、やはり貴様は偽物の神子だったな。――衛兵！」 　アインの呼び声と共に、兵士が部屋の中へ駆け込んで来る。 「こいつは神子と偽り、真の神子であるアユムを殺そうとした重罪人だ！　こいつを牢へ！」 　その命令に兵士が幸のことを取り囲み始める。 　〝牢〟という単語に血の気がさらに引いていく。なんとか誤解を解かなければ、と幸は必死に叫んだ。 「違う！　俺は何もやってない！　歩に騙されたんです！　信じてっ」 「この状況で誰がお前の言葉を信じると？」 「それでも本当に俺はやってません！　お願い歩！　本当のことを言って！」 　縋る思いで幸は歩を見上げた。しかし返ってきたのは冷たい声だった。 「耳を貸しちゃだめだよ、アイン。早くあいつを捕まえて」 「歩っ、どうしてこんなことするの⁉︎　お願い歩！　こんなことやめて！」 　　歩と幸の言い争いに、どちらの言っている方が正しいのかと、兵士たちは戸惑っている。 「アイン！」 　戸惑う空気を切り裂くように、歩が叫んだ。その声があまりに冷たくて、その表情があまりに残忍で、幸は次に歩が何を言うのか分かってしまった。「やめて」とまた言い、弱弱しく首を振った。 「俺とこいつ、どっちを信じるの？」 　しん、とその場が水を打ったように静まり返る。誰もがアインの言葉を待った。 「――もちろん、アユムだよ」 　その言葉に目の前が真っ暗になった。何も聞こえなくなり、何も見えなくなる。乱暴に体を縛られ、引きずられたような気がする。でも詳しい記憶はない。気がついたら幸は暗く冷たい石の牢の中に転がっていた。 　ただ、頭の中には最後に見た歩の表情が張り付いていた。唇を三日月のように歪めて、悪い魔女のように佇む歩の姿が。