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第30話

黒瀬はボールを網に入れると、悠と一緒に自分の隣へ図々しく腰を下ろした。脇から水筒を取り出して、悠に飲ませながらニヤつきながら顔を覗いてくる。 「どうかな。よくわからないよ。」 黒瀬の事が原因なのか、連絡不精な自分が悪いのか、どちらにしろ上手く答えられなかった。 蒼は出会って初めて見たぐらい、手がつけられないほど怒ってそうだった。静かに、そして冷静に怒るので、話し掛ける事も、言い訳もできずにどうしたらよいのか分からなかった。 「彼とはどこか出かけたの?」 「……どこも。」 不愛想にそう答えると、黒瀬は眉を上げて肩を竦めた。こんなにとっつきにくい自分を見たのは初めてだったのだと思う。 いつも黒瀬に合わせていたので、長く付き合っていても本性をさらけ出した事はなかった。 「こんなに雑誌に付箋を貼って意気込んでるのに、彼は何してるんだい?……まさかずっと君は一人でこのベンチに座ってたなんて事ないよね?せっかく日本から来たのに、そんな馬鹿な話信じたくないな。」 黒瀬は軽く笑うと、悠は立ち上がって目の前の草花をしゃがんで眺めていた。横影からリスが走るのが見え、自分の鬱々とした気持ちが癒された。 「相手は仕事で忙しいし、……する事もないんだからほっといてくれ。」 黒瀬はいつも他人の気持ちなど推し量ることなんてしない奴だ。真面目に答えても無駄なのは承知の上だった。 「………彼は休みを取らなかったの?普通は休暇なり取って君との時間を大事にするんじゃないかな。」 そんな事を他人に指摘されると、悲しくなった。わくわくと期待していた旅行は灰色の絵の具を塗りつけたように何も起こらず、存在すら無視されたような扱いをされ、本当に早くあの家を出たい衝動に駆られる。 頑張って貯めたチケット代が枯れた葉のように意味をなさぬように、どんどんと自分は来なかった方がよいと思い込む毎日だ。 運が良かったと言えば、季節が夏だったことぐらいだ。これが寒い冬だったら、自分は誰もいない家に籠ってどうにかなってしまうんじゃないかと感じた。 「子供じゃあるまいし、夜過ごせるから別に気にしてないよ。」 気丈なふりをして、また珈琲を飲み流すと胃が痛くなった。 夜は会話もなく、寝室も別という冷え切った関係の事は伏せた。 多分蒼は黒瀬の嫉妬もあるが、遠距離で疲れ、 冴えない自分へ気持ちが醒めているのは気づいていた。 黒瀬と話しているとモヤモヤしていた考えが、霧が晴れたように明解に整理されていく。 「ふーん、君はどこか観光してる?」 「……美術館と、この公園くらいかな。」 そう言うと黒瀬は立ち上がって、急に楽しそうな表情になった。その顔は付き合っていた頃と変わらない。 「ねぇ、美味しいシーフードを食べようよ。せっかくボストンに来たんだから、美味しい物を食べなければ損だよ!」 ワクワクと少年のように思いつき、爽やかに笑った。その笑顔はどんよりと濁った気持ちが晴れて、少し救われた気がした。 早速、黒瀬は携帯を取り出し、どこかへかけると、手を引いて自分と悠をタクシーに押し込んだ。

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