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第39話

蒼は朝から忙しく、まともに食事することすらままならなかった。 『兄さん、今日は元気ないね。何かあった?』 電話の遠くで、葉月が明るく話していた。 日本時間はまだ昼前で、いつもこの時間に皐月の声を聞いていたのを思い出す。 今日は珍しく葉月から着信があり、初め皐月だと思って急いで電話を取ってしまい、それが分かったのか、何も知らない葉月に笑われた。 「……うん、ちょっとね。仕事も忙しくて、大変だよ。」 『駄目ですよ、今皐月くんそっちに来てるんでしょ?ちゃんとエスコートしないと怒られますよ。出発する前なんて観光する為に、観光雑誌に沢山付箋貼ってたのが鞄から見えて、笑っちゃったんだけど。』 無邪気に話す葉月の言葉に、皐月の傷ついた顔を思い出して胸が痛んだ。 あれから連絡は来ず、こちらから連絡しても電源を落とされていた。メールも送ったが、皐月が開いて読んでる自信がなかった。せめて皐月の帰国を見送りたいとなんとか時間を作ったが、運悪く大規模な交通事故が発生し病院の窓から飛行機を見上げる事しか出来なかった。 せっかく皐月が日本から来たのに、黒瀬への嫉妬心で仕事を理由に皐月を遠ざけ、頭では駄目だと分かっていたが、普通に接しようとするほど、邪険にしてしまっていた。 帰宅する度に明るく装い、話しかけてくる皐月が痛々しく、どう接すればよいのか分からないまま、必要最低限の言葉で会話を終わらせてしまい罪悪感が半端なかった。 皐月は今の自分が好きなのか、それとも黒瀬を思い重ねていた自分が好きだったのか、考えれば考えるほど、ずぶずぶと深い泥濘に飲み込まれてしまい、今でも皐月は黒瀬に想いを馳せてるんじゃないかと妄想に駆られそうだった。 初めにボストンに着いた頃は恋しくてしょうがなかったのは確かだ。皐月と関係を解消した後でも、遠い土地ですら皐月を思い出しては逢いたいと思っていた。 そして我慢出来ずに一度帰国すると、皐月は仕事で担当らしき男と一緒にいた。 桐生もそうだが、他の男といるだけでショックだったのに、黒瀬という皐月の過去に大きな影を残させた存在は自分を苦しめた。 分かっていたが、黒瀬という男を知ると皐月の消極的な性格や、過去のあの寂しげな表情はすべてこの男の影響ではないかと思い、許せなかった。桐生とは違う、明るく、気さくで飄々とした態度も気に入らない。 自分だけが皐月を好きで、その熱量は重く溶けそうなくらいなのは自覚している。その気持ちが暴走し、散々皐月を傷つけたのも反省していたはずだ。それで皐月とやり直した時は自分の気持ちを抑え、皐月の気持ちを優先させた。 優先するが故に、連絡無精な皐月の連絡は途絶える一方で、逢えない思いだけ、反対に自分だけが逢いたいと思いが募った。 そして久しぶりに逢えると思っていた時には、皐月は平然と黒瀬と仲良さそうに空港にいた。しかも皐月を見かけたと思ったら、頬に笑いながらキスをしていた。その光景はショックでどうしようもなかった。 また自分だけが皐月の過去にまだ囚われ、本人達はそれを乗り越えたような風に見えて、やるせない気持ちになった。 自分も皐月と別れたら、皐月は黒瀬や桐生と同じように何もなかったように友人に戻るのだろうかと恐怖すら抱いた。 運が良いのか同僚が体調を崩して、シフトを交換したことを口実に休暇を返上し仕事に逃げ、皐月から離れて頭を冷やしたかった。 皐月と話し合わなければいけないのは分かっていたが、冷静になれず、ついには高ぶった気持ちをぶつけてしまい深くまた傷つけた。 関係の修復が出来ないまま、休みの日もどうして良いのか分からず寂しげな皐月を前に、嘘をついてしまう。 あの日は懇意にしていた教授と朝倉を夕方まで案内し、夜に皐月とディナーをしながら関係を修復しよう思っていた。 素直に黒瀬へヤキモチを焼いていた事、一人にさせてしまっていた事、全てに頭を下げて謝ろうと帰宅途中に何度も思った。 そして、重い足取りで家へ着くと部屋には誰もおらず、ヨレた観光雑誌が投げ捨てられ、荷物もなく血の気が引いた。 犯罪に巻き込まれていないかを確認し、日本行きは既に出発しているのも検索して、周辺を探し、それでも皐月の姿はなく、最後は桐生へ連絡した。桐生は思い当たる所があるらしく、少し待つと宿泊してるらしいホテルを教えてくれた。 急いで向かい、ホテルで皐月を見つけると心の底からほっとした。 知らない土地で言語もそんな得意でない皐月を一人にしていた自分を酷く恥じて、反省した。 引き戻そうと手を引くと振り払われ、皐月の怒った表情に驚いた。 そして、せめて距離を置いてお互い冷静になろうと伝えたかった。その答えに皐月の『いやだ』という返答をされ、まだ好きだと言われたようで嬉しかった。 『蒼、別れよう』 涙を流しながらも、皐月は初めて自分に逆らったような気がした。 黒瀬とも8年付き合ったと聞いて、高を括っていたのかもしれない。まさか皐月から別れを選択するとは思いもしなかった。 別れたくないと伝えても、皐月の意思は堅い。 散々傷つけて、その傷もまだ心に残っているのは知っていた。だからこそ迂闊に皐月に触れられなかったのもあり、何も出来なかった。 なんとなく、そんな事を振り返っていると、そろそろ就寝時間が近づいてきた。 「うん、彼も元気にしてるよ。葉月も風邪ひかないようににしなよ。おやすみ。」 そう言いながら、遠い日本の電話を切った。

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