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第41話

最悪だ。 エアコンの効いた寝室で、ズボンと下着を捲りながら舌打ちをした。 蒼に初めて抱かれた夢を見たせいで、目醒めが最悪だった。頬に涙は垂れ流されてるし、どこか気持ち悪くて下半身の違和感を感じて下着を確認するとべったりと濡れ、纏わりついてくるように夢精をしていた。 恋愛は上書きなど聞いた事があるが、自分は新規作成で蒼というファイルを名前保存をされてるようだ。 黒瀬と会ってるうちに、今まで拘ってきた事が消化され、蒼の記憶がまるで呪いのようにインクが滲んではみ出しては、こうして夢に出てくる。 別れてから2週間経過し、無事に日本に帰国できたがそれだけが嫌だった。帰国するまでは、結局チケットを買い戻すのも勿体ないと黒瀬に説得されて、最後まで悠の世話を条件に滞在し、ボストンを楽しめた。 悠も結構懐いてくれ、毎日美術館やプール、博物館など黒瀬が仕事の時は二人で出かけては、よく遊んで行きたかった観光もそれなりにできた。 悠は仲良くなると好きなアニメや絵本を話してくれ、夜は帰りの遅い黒瀬の代わりに一緒に添い寝もして、今までの寂しさを癒すように傍にいてとても可愛かった。 黒瀬もよく懐いてくれる自分を信用してるのか、快く悠を預けてくれて、最悪だった旅は悠のおかげでなんとか彩ることができた。 そして黒瀬には一応、関係をやり直すつもりはない、と夜に悠が熟睡している時に、酔った黒瀬に口説かれてはっきりと断った。 黒瀬は優しく微笑んで『そっか……』と残念そうに悠の頬を撫でて承諾したかにみえた。今更戻っても、また同じように過去を重ねるような気がするのと、今の幸せを壊したくなかった。 そして黒瀬はわざわざスケジュールを合わせて一緒に帰国した。出発する時にもしやと思って、蒼の姿を探したが当たり前のように雑踏に掻き消されて何も見えなかった。 それが、ボストンでも最後の記憶だった。 帰国してからは仕事も順調で、相変わらずこのボロ家で暮らしている。 何も変わった事もなく、平凡な毎日を過ごしていた。蒼に振られてから引っ越してきたが、よくよく住んでみると住み心地は悪くなかった。 それはボストンの辛い日よりは幾分かマシで、一人でも寂しくない。 ただ今さらながら蒼から着信もメールも来ていて、全て返さずメールだけ確認して閉じた。 『ごめん、許して欲しい』 『愛してる』 『嘘をついて、ごめん。』 メールの内容はもっと長いが、そんな常套文句が並べられ、つい酔った時に読むと油断して許してしまいそうになる。やり直しても蒼がこっちに帰国しない限り、逢えるのは来年以降だ。 あれほど悲しかった思いが現実社会に戻ると、嘘のように消えそうだった。 いや、本当はどんどんと溜まっていくメールの言葉が嬉しくて、蒼がまだ気持ちが変わらない事を確認しては安心しているのかもしれない。悲しい思いが蒼の言葉で癒されているのは本当だった。 溜息をつきながら、冷たいシャワーを浴び、新しい下着に着替えていると朝早くから玄関の呼び鈴がなった。 玄関の扉から背の高いシルエットが見えて、どきりと胸が高鳴った。 「おはよう、皐月。」 「………なんだ、黒瀬か。やぁ、悠くんもおはよう」 建て付けの悪い玄関の引き戸をスライドさせると、黒瀬と悠がたっていた。まだ朝8時だ。いくらなんでもアポなしで突撃するには時間が早すぎる。 「何だって酷いな。今日ヒマかな?良かったら、海に行かない?」 黒瀬は黒のポロシャツに半ズボンを履いて、ニコニコと陽気な声で話し、黒い車の鍵を見せつけた。朝日が当たり、眩しく鍵が光り、目を細めた。 悠に視線を移すと心配そうにこちらを見ている。 「………夜は用事があるから、夕方まで戻れるならいいよ。今荷物持って来る。」 そう言うと悠の顔がぱっと明るくなり、なんでもしてやりたくなってしまいそうだ。 今日は一日また駄文を重ねては担当に怒られて、夕方は黒木と食事する予定だった。 今まで黒木の誘いは頑なに断っていたが、阿保らしくて食事の誘いを承諾した。気晴らしにあの能天気な外科医の話でも聞いて、楽しく食事しようと思っていた。 「うん、分かった。ここで待ってるよ。」 爽やかに黒瀬が笑うと、悠も嬉しそうに微笑んだ。湿った最悪な気分が浄化されそうで、朝から少しだけ黒瀬と悠に感謝した。

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