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第一話 森の落とし物②

私は身を起こしてまた当てどもなく歩き始めた。  こうして散策するようになってから、森のなかの様子がより深く理解するようになった。いくら文明を持ったといえど、私たちはやはり根が獣なのだ。むしろこちらの姿の方が自然だと思えるほどだった。  獣に戻る喜びを知って以来、私は街から離れたこの森のすぐ傍らに、小さな家を建てて住み始めた。同僚たちは「金の使い方まで変わってる」と揶揄してきたが無視した。私は自分らしい生き方を見つけたのだ。  本音を言うと、いつでも虎の姿に戻れる環境に浸りたかった。通勤時間は随分延びてしまったが、全く後悔はしていない。  私有地であるこの森に近付く者はいない。森のなかで私が会うのは、森に住む小動物程度だ。彼らは進化の過程で、獣人になることを選ばずに、獣としての生を受け入れた者たちだ。  愛らしい生き物たちは、私を見ると不思議そうな目を瞬かせる。大きな獣に慣れていないのだろう。怖くないよ、と話しかけてみても「がうがう」という音にしかならないので、逃げられてしまうのが少し寂しかった。  自分がおかしいのは分かっている。こんな異常な行動を繰り返すなど、私は気が触れてしまったのかもしれない。けれどやめられない。一度知ってしまったこの開放感を、私はもう手放すことができない。  ーーああ、もう仕事なんて辞めて森で暮らそうか。  そんなことを思いながら歩いていた、そのとき。 「うぅ……」  すぐ近くで、誰かの声がした。動物ではない、ひとの声だ。私は一瞬にして毛皮の下の皮膚が汗ばむのを感じた。  ーー見つかる。バレてしまう。私の行いが。  すぐに踵を返そうとして、はたと気が付いた。一体誰が立ち入るというのか。こんなひと気のない私の森に。  足を忍ばせ、おずおずと声がした方向へ近づいた。この森は案外深く入り組んでいる。たまたまこの近くを通りかかった獣人が、たまたまここへ迷い込んだ可能性も、なきにしもあらず。私の癒しの場で死なれては堪らない。そんな気分だった。 「う……」 「……ぐる」  茂みに隠れて、男がうつ伏せに倒れていた。随分細っこい男だ。この辺では見かけない服を着ている。  男は全身が土に塗れ、汚れていた。真っ暗な髪はぱさぱさと乾き、手足は擦り傷だらけ。そしてその頭には、獣人の証である耳が見当たらなかった。  ーー怪我で耳を失ったのか?  そうっと近づいたみるが、出血しているようには見えない。よく見れば尻尾も生えていない。ますます疑念は募る。ためしに前足でつついてみても、男は唸るばかりで言葉らしい言葉を発しなかった。  ーーなんだこいつは。何の獣人だ?  僅かに爪を出して髪をすくってみると、顔の両脇に毛の生えていない耳らしきものが付いていた。入り組んだ形をしていて随分と変わっている。こんな妙な獣は見たことがない。少なくとも、街の住民でないことだけは確かだ。 「……ぐるる」  それにしても。それにしても、だ。  男はやけに良い匂いをさせていた。  薄汚れて、どこの馬の骨かも分からないのに、全身から甘く優しい匂いを発していた。街で時折すれ違うメスたちのものともまるで違う。香水のような作られた匂いではなかった。  それであれば、この匂いは男が生来待ち合わせているものだということになる。  こんな妙な獣が。一体全体どういうことか。 「……うぅ、ん」 「ぐる」  地面にめり込んでいた男の顔が僅かに動き、横を向いた。そしてゆっくりと目が開かれる。  焦茶色の瞳が私を捉えた瞬間、なぜか私は無意識のうちにぐるぐると唸っていた。さっぱりとした造りの目が僅かに見開かれ、乾いた唇が動く。 「……とら?」 「………ぐぅ」 「……たべるなら、せめて、ひとおもいに……」  それだけ言って、男はまた目を閉じてしまった。  呼吸は微かに続いている。 「ぐるる」  困った。男は明らかに弱っていた。声もか細かったし、栄養状態が良いようにも見えない。  なぜこんなところで倒れてるのか全く見当がつかなかったが、それでも目の前で行き倒れされると放っておくわけにはいかない。  それに、男が私の姿を見て、蔑むような目を向けなかったことに驚いた。こんなみっともない姿を見て、ただ「とら」とだけ感想を述べたに過ぎない。  いや、これほど衰弱しているのだから、冷静な判断をできないだけかもしれないが。  疑念に苛まれながらも、私はふんふんと男の身体の匂いを嗅いだ。  やはり甘くて爽やかな、良い匂いがする。嗅いでいるだけで、くすぐったい気分になってしまう。  耳の形が変な、不思議な男。 「…………。」  なんにせよ、ここから男を移動させなくてはいけなかった。獣人の姿で運ぶことも考えたが、やめた。  虎の姿ではあまり気にならないが、森のなか、獣人の姿で全裸となるとさすがに心もとない。  それに、いくら細身の男といえど、獣人の姿で運ぶのは距離的にも限界があるように思えた。多少荒っぽくはなるが、虎の姿でいた方が力を込めやすい。首の後ろを咥える程度なら、かすり傷程度で済む。  私は気安く考えていた。  純粋に、人助けをしようと思ったのだ。 「……がぅ」  そして私は、男のうなじを甘噛みした。血が出ないように、細心の注意を払う。少し傷跡が残るかもしれないが、甘噛みなら。  私の牙がゆっくりと男のうなじに沈んでいく。  その瞬間だった。 「…………!!」  ぶわり、と男の身体からより濃い匂いが湧きたち、私は思わず口を離した。理性なんてどろどろに溶かしてしまうような、強く甘い匂いが脳を揺らす。一瞬目眩で倒れそうになったが、何とか耐えて体勢を立て直した。 「……ぐぅ、う?」  なんだ、今のは。心臓がばくばくと跳ね、毛皮の下の皮膚に汗が滲む。嗅いだことのないくらい強い匂いだった。  ーーこの男は、一体。 「……うぅ」 「…………」  結局私は、くらくらと揺れる頭と理性を無理やり押さえつけながら、男を家まで運んでいった。着いたころにはもう匂いに酔ってへろへろで、男をベッドの上に寝かせた後、私は床の上で泥のように眠った。気絶した、という方が正しいかもしれない。  仕事に遅れると一瞬思ったが、どうしても目蓋が下りてくるのに抗いきれなかった。  私は知らなかった。  本当に知らなかったのだ。  その男のうなじを噛むことが、特別な意味を持つなんて。

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