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第二話 遭難の心得①
まさか自分の人生が、虎に喰われることで終わろうとは。
俺はしがない大学生だった。普通の公立高校を卒業して、運良く国立大に引っ掛かり、ごくごく普通の大学生ライフを送っていた。派手な奴らとはノリが合わないから、あまり目立たない、それでいて地味すぎない奴らとつるんでいた。小遣い稼ぎに居酒屋でバイトをしては、大学の講義を受け、たまに友人のフットサルサークルに顔を出して、気の合う仲間と飲みに行く。
就活目前まで進んでも、残念ながら彼女はできなかった。まあ、それでも良い。仕方がない。周りと話を合わせるために無理に「好みのタイプ」なんて作り上げていたけれど、本音を言えば俺はそれほど恋愛に興味がなかった。
何度か女の子と良い雰囲気になったこともあるが、それ以上進展しなかった。俺はいわゆる「良い人」の部類に入るらしい。
——タクマくんは良い人だよね。
——良い人、なんだけど。
そんな語尾に「だけど」が付くような立ち位置だ。でもまあ、それも仕方がない。自分でも面白みのない人間だとは思うから。
俺には隠れた趣味があった。動物園へ通うことだ。子どものころから、俺は動物が好きだった。産まれてこの方アパート暮らしだったから何かを飼うことはできなかったけれど、暇さえあれば図鑑やテレビで動物を眺めていた。
動物園へ行けば、動く彼らに会うことができる。のんびりと過ごす動物を見るのが好きだった。何を考えているんだろう、俺のことはどう見えているのだろうと勝手に思いを巡らせていると、あっという間に時間が過ぎる。仕草のひとつひとつに目を奪われてしまう。彼らともし話せたなら、どんな話題になるのだろう。そんなアホみたいなことを考える。
あまりにも地味な趣味すぎて、誰かに言ったことはないけれど、いつの間にかそれは俺のライフワークとなっていた。
とにかく、俺は普通の人生を送っていた。
少なくとも、その日までは。
その日、俺はバイトから帰る途中だった。宴会が入った日の居酒屋バイトは地獄だ。飲み放題なんてシステム、一体だれが考えたのだろう。
汗だくでひたすらドリンクを作っては運ぶという苦行。店員を呼んでからメニュー表を眺め始める客たちに精神をすり減らし、俺はもうくたくただった。
疲労感を背負いながら、俺は暗い夜道を歩いていた。いつも通りの、何の変哲もない帰り道だった。その筈だったのに。
「…………?」
後ろに気配を感じた気がして振り返った。けれどそこには誰もいない。点滅した蛍光灯が力なくアスファルトを照らしていた。
なんだろう。背筋がぞくぞくした気がするけれど、気のせいか。そう思って俺は一歩足を踏み出した。
そのときだった。
「えっ、うわ!?」
がくり、と身体が下に傾いた。たとえるなら、夢の中で階段を踏み外したときのような浮遊感。周りの景色がぐるんと回転した。顔面から転ぶ、と目をきつく瞑ったが、予想したような衝撃は訪れなかった。
代わりに息も出来ないほどの強風が正面から俺を包む。風は地面から吹いていた。なぜ、と考えるより先に、嵐のような風圧があちこちから襲いかかってきて揉みくちゃにされた。
ひっくり返って、また戻って、ぐるぐると揺さぶられ、もうどちらが地面か分からない。洗濯機に入れられたらきっとこんな感じだ、と頭の片隅に残った冷静な部分が言う。
それらが突然ぴたりと止んだ瞬間、今度は足の裏に触れるものが空気しかないことに気付いた。
——落ちる。
目を開けることもできずに、俺はそのまま気を失った。
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