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第二話 遭難の心得②

 次に目が覚めたとき、俺は森の中に仰向けに倒れていた。  身体を起こすと周りには木々が生い茂っていて、ときどき鳥の鳴き声がする以外は、まるでひと気がなかった。コンクリートに囲まれて育った俺にはまるで縁遠い場所だった。  360度自然に囲まれるなんて、昔学校の行事で山林学校に行った時以来かもしれない。むせ返るような青々とした香りに包まれながら、呆然とその場に座り込む。 「……どこだ、ここ」  俺は家に帰ると途中だったはずだ。なぜ、どうして、こんな自然溢れる場所に。  幸いどこも怪我はしていなかったが、背負っていたはずのリュックも、ポケットに入れていたケータイも無くなっていた。着慣れたトレーナーにデニムを身につけているだけ。あとは全くの丸腰だ。 「うそだろ……」  俺は「途方に暮れる」という本当の意味を思い知った。後ろの方でガサガサと葉がざわめく音すら恐ろしい。あまりの事態に涙すら出なかった。  とりあえず、まずは、誰かに助けを求めなくては。そう考えて俺は、森の奥へ足を進めた。何も分からないけれど、真っ直ぐ進んでいたら、何か見えてくるかもしれない。祈るようにそんなことを思った。  歩き始めて間もなくして、俺はす自分の考えの甘さを知った。俺は甘かった。でろでろの砂糖菓子よりずっと甘かった。  そもそも、こんなに木が立ち並ぶ場所で「真っ直ぐ」なんて到底無理なのだ。ひょこひょこと足を進めるものの、事態が好転してるとはとても思えない。絶望的な気分になりながらも、俺は自分的に真っ直ぐらしき方向へ進むしかなかった。  周りで何か音がするたび「人かもしれない」と期待したが、ただ鳥が飛び立つだけだったり、リスが木の間を移り渡るだけでしかなかった。いくら動物好きだと言えど、こんなときに「わあ〜!かわいい!」と喜べるほど俺は能天気ではない。  ひたすらに泣きそうだった。でも泣いたら心がめきめきに折れてしまう気がして、俺は動き続けた。  こんなことなら、山岳部とか、キャンプサークルとか、遭難したときに役立つ知識を身につけられるグループに所属しておけば良かった。そう後悔したって遅すぎる。それに、入学したての自分に「将来森で遭難するから命を守る準備をしておけ」などと言っても信じるはずがない。  歩けば歩いた分だけ腹が減った。時折木の実らしきものを見かけたけれど、それが何という木なのか、そもそも食べられるのかどうかも分からない。  都合よく湧水に遭遇なんてできるわけもなく、俺は無計画に進むしかなかった。周りが暗くなると、木の根本に横たわってみたが、寒いし怖いし地面は冷たいしでまるで眠れなかった。  俺は自分がどんどん憔悴していくのを感じていた。  俺はもうやけくそだった。こうなったら体力が尽きるまで歩いてやる。歩いて歩いて、その場で倒れるまで足掻いてやる。そう決意して、俺は朦朧とした頭のまま身体を動かした。  何日経ったかは分からない。生まれて初めて死を意識した。こんなに研ぎ澄まされていたら良い考えが浮かぶかも、と期待したが、脳みそは生まれ持っての能力以上の働きは見せてくれなかった。  眠気と空腹で、もはや自分が起きているのかどうかもあやふやで、何でもない木の根に躓き、俺はべしゃりとうつ伏せに倒れ込んだ。  起き上がろうとしたけれど無理だった。  ついに限界が来た。初遭難の結末は呆気なかった。俺はこのまま、誰にも気付かれないまま死ぬのだ。 「うぅ……」  さすがに俺も諦めて目を閉じた。もう目を開けている力すら無い。やり切った。俺はよく頑張った。人生で一番頑張ったかもしれない。せめて眠るように死にたい。  ——神さま、何がどうなって俺をこんな目に遭わせているのか知りませんが、めちゃくちゃ恨みます。  そう念じたとき、ガサガサと葉が擦れるような音と、何かの息遣いを近くで感じた。気配から、それがとても大きい生き物だと分かる。 「う……」 「……ぐる」  猫が喉を鳴らす音……よりも大分低い音がする。  なんだ?熊?熊って喉鳴らすんだっけ?どっちにしろ、この森の生き物に見つかったらしい。  人かも、とちょっとだけ期待したけど人じゃない。だって、人は喉を鳴らさない。  ふさふさとした硬めの毛並みが感触が肌を撫でる。  ああ、やばい。喰えるかどうか物色されてる。マジですか、神様。俺が恨みごと言ったからって、生きたまま喰われる最期はあんまりじゃないですか。 「……ぐるる」  ほら、また喉を鳴らしてる。きっと腹が減ってるんだ。嫌だなぁ。ここまで来て痛いなんて最悪だ。  絶望のその先に存在した更なる絶望を味わっていると、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐった。  花のような、それでいて甘ったるい香り。  この森では、いや、今までの人生で嗅いだことのない種類のもの。その香りは、俺を喰おうとしている生き物から発せられていた。  ——なんだろう。すごく、安心する匂いだ。  俺をムシャムシャ喰おうとしているのは、どんな生き物なんだろう。死ぬ前に、と思って力を振り絞り、俺は香りのする方へ顔を動かした。 「……うぅ、ん」 「ぐる」  重くてたまらない目蓋を無理やり開けた。  なぜか分からないけれど、香りの正体を見なければいけないという衝動が働いていた。  そこに虎がいた。  毛並みの美しい、金色の瞳の虎が。 「……とら?」 「………ぐぅ」  俺と目が合うと、虎はまたぐるぐると喉を鳴らした。黒の文様がよく映えた、精悍な顔立ちの虎だ。何となく戸惑っているように見える。虎のくせに随分人間染みた顔をするな、と思いながら、俺は目の前の生き物に最期の願いを託した。 「……たべるなら、せめて、ひとおもいに……」  頭からいってくれ。  手足からじわじわとか、生かさず殺さずとか、そういうのはまじで、本当に、勘弁してください。俺はここまて、結構がんばってるので、これ以上はもうがんばれません。 「ぐるる」  また目蓋が下りてくる。  ふわふわと漂う甘い香りになぜか幸せな気持ちになりながら、俺はまた気を失った。  ああ、知らなかった。  虎って、良い匂いがするんだな。

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