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第二話 遭難の心得③

 こうして俺は死んだ。  生きながらにして喰われたにしては痛みがなくて本当に良かった。きっとあの虎は、獲物を喰うのが上手な虎だったんだ。ああ、良かった良かった。 「…………ん?」  目を開けたらそこは天国……というわけではなさそうだった。木目が剥き出しの見慣れない天井。背中に当たる柔らかな感触に、自分がベッドに寝かされていることが分かる。身体にかけられた布からは清潔な石鹸の香りがした。  ——ここはどこだ?  起き上がろうとして身体に力を込めようとしたけれど、上手くいかなかった。ぎしぎしと軋む身体を僅かに動かして、両手を掲げてみる。  とりあえず、両手はある。両足の感覚もある。もちろん頭もある。どうやら、虎の腹の中ではなさそうだった。 「起きたのか」  声を掛けられたことに驚いて顔だけ動かした。そして、絶句した。 「無理しない方が良い。三日も寝ていたんだ」  穏やかに話しかけてきた男は、それはもう整った顔をしていた。色が白くて鼻が高くて、外国の俳優みたいだ。瞳は金色だ。あんまり見たことがない。しかしそれよりも、だ。 「…………」 「どうした?」  俺の目は彼の頭上に釘付けになった。頭上、というより、頭上から生えているもの。獣の耳。俗称、ケモミミ。丸い形で毛が生え揃ったそれを、イケメンが頭に着けている様はなかなか衝撃だった。しかもその耳はぴくぴくと動いている。  それだけじゃない。見間違い……いや、間違いなんかではなく、尻のあたりから金と黒のしましまの尻尾らしきものが生えている。もちろんそれもゆらゆら動く。  どうなっているんだ。どういう仕組みだ。この人はすごい技術を持ったコスプレマスターとかなんだろうか。  俺が口をきけずにいるのを見て、男は心配そうにベッド脇に近付き、顔を覗き込んできた。やっぱり髪の隙間から耳が生えている。そう、着けているのではない。作り物でもない。生えているのだ。 「飲むといい」  男から水の入った器を渡され、俺は自分の喉が酷く乾いていることに気付いた。素直にそれを受け取り流し込めば、へばりついていた舌がやっと動き始める。 「大丈夫か?話せるか?」 「……あ、はい。すみません……」  多分この人は俺を助けてくれたんだ。それなのに耳に気を取られてしまった。とりあえずケモミミとキュートな尻尾については一旦脇に置いておこう。男は俺の声を聞きほっとしたような顔をして、静かに話しかけてきた。 「私はオズだ。この家に一人で住んでいる。ここは君が倒れていた森のすぐ近くだ。ちなみにあの森も私の所有物だ」 「オズ、さん」 「オズで良い。対等に話してほしい。君の名前は?」 「タクマ、だ、けど」 「分かった。タクマ」  ケモミミ男、もといオズは、俺の目を見つめて続けた。 「君はどうしてあんなところに倒れていたんだ?」  ごもっともな疑問。オズからすれば、見ず知らずの男が自分の庭で行き倒れていたようなものだ。オズの視線は強くて、とてもじゃないけど誤魔化せそうになかった。信じられないような話だけど、ありのままを話した方が良い。 「……俺も、よく分かんなくて」 「分からない?」 「本当に分からないんだ。何日前か分からないけど、俺はこことは全然違うところを歩いてて……、そしたら、いきなりこの森のなかにいて」 「…………」 「それで、その、どこ行けば良いのか分かんなくて歩いてたら、完全に迷っちゃったっていうか……」  俺が話せば話すほど、オズの眉根が寄っていく。  いや、分かるよ。意味が分かんないのは分かるけど。けどこれが本当のことなんだ。  気まずい雰囲気が流れたのを何とかしたくて、俺は必死に話を逸らすことにした。 「あ、あの森って!」 「うん?」 「虎がいるんだね!」  そう言った瞬間、オズの顔色がさっと変わった。明らかに青ざめて、恐ろしいものでも見るような目つきで俺を見る。 「……タクマ、」 「あ、え?」 「き、君は、覚えてるのか?」  何が?  ……ああ、でもオズは俺が虎に喰われそうになっていたところを助けてくれたに違いない。だから、俺がそのときのことを覚えてるのか、と聞いているんだ。イケメンは気遣いもできるんだな。そう受け止めて、俺は頷く。 「覚えてるよ。なんか、すごいデカい虎が」 「ひっ!」  瞬間、オズは更に顔を青くして飛び上がった。手がぶるぶると震えている。え?何?虎恐怖症?  何がなんだか分からなくて、俺は口を開けたままオズを見返した。 「……だ、」 「だ?」 「だ、誰にもっ……言わないでくれ……っ!!」  悲鳴のようにそう叫ぶや否や、目の前の男はもの凄い勢いで床に膝をつき俺に土下座をした。  ごんごんと額を床にぶつけながら「お願いしますお願いします」とぶつぶつ言っている。  尋常ならざる様子に、俺も呆気に取られてしまった。 「……え?な、なに?」 「出来心なんだ……ほんの、出来心で、ムシャクシャしてて……っ、それで、一度だけと思ったら……、思いのほかハマってしまって……っ!」 「は?なに?」 「頼む!!この通りだ!!何でもする!!だからっ」 「ま、待って待って!ストップ!」  ぎらぎらと血走った目に懇願されて混乱する。  全然意味が分からない。なぜ俺が虎のことを覚えているのが、こんなにもオズを追い詰めているんだ? 「……誰にも言わないで、って、何のこと?」 「え?」  オズがぽかんと口を開けたまま、俺を見る。  ふわり、と甘い香りがするのと同時に、なぜか首の後ろがちりちりと疼いた。  俺は何も知らなかった。  目の前の男が、自分にとってどんな存在かということを。

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