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第五話 下手な言い訳よりは①

 私は困り果てていた。おそらく今までの人生で一番困っていた。  タクマとの距離の取り方が分からなくなってしまったからだ。  過ちを犯したのは二週間前のこと。  私は体調を崩して寝込んでいたタクマを襲い、朝までその身体を貪り尽くしてしまった。我ながら最低の行動だった。タクマは「強姦じゃない」と言ってくれたが、今思い返してもあの行為は普通ではなかったと思う。  ——正直に言うと、私が性行為に及ぶのはあれが初めてだった。  今までも恋人がいなかったわけではないが、私の堅物さが皆嫌になるのか、深い関係に至ることは一度も無かった。このまま誰の肌も知らぬまま一生を終えるのかもしれない、と半ば諦めていただけに、タクマとの行為は強烈だった。  細部を思い出せるわけではないが……とりあえず、タクマが酷く扇情的だったことは覚えている。行為の最中に「もっとして」と懇願されるたび、「よし頑張るぞ」と張り切ってしまった自覚もある。  それほど顔立ちが整っているわけでもないのに、最中のタクマはすごかった。仕草のひとつひとつに、むせ返るような色気を感じた。  ……これはタクマの尊厳のためにも、早めに忘れた方が良いだろう。  私があんなにも欲情してしまった理由。それはおそらく、タクマから発せられる香りのせいだ。  タクマが許してくれた後「実はタクマの匂いで頭がいっぱいになってしまったのだ」と打ち明けると、タクマも「自分もそうだった」と納得した様子で話した。  私はタクマの香りに惹かれ、タクマは私の香りに惹かれる。  ニンゲンというのは皆良い香りがするのか、と尋ねると、タクマは変な顔をして否定した。好き合った者同士がお互いの体臭を好ましく思うことはあるだろうが、理性を失うほどの香りを発するなんてありえない、と。  獣人だってそれは同じだ。  こんなに相手の香りに翻弄されて、時間を忘れるほど性行為を繰り返すなんてあり得ない。  結局なぜ私とタクマがあんなにも乱れてしまったのかは謎のままだった。謎だったが、獣人でもないタクマをひとり放り出すわけにはいかず、私たちは二人での生活を続けていた。  しかし接し方は、以前とは変わってしまっていた。  あんなことがあったのだから、意識しない方が難しい。忘れよう忘れようと何度唱えてみても、あの日のタクマの姿がちらついて仕方がなかった。  寝室が一緒なのも良くなかった。私の家は広くないから、寝室いっぱいにベッドを二つ並べている。  つまりは毎晩、すぐ隣でタクマが寝ているわけで。 「…………」  私は寝不足が続いていた。タクマはなぜこんな状況で眠れるのだろうか。あの日ほどではないとはいえ、私たちは互いに香りを発しているのに。  ふわふわと甘い香りが鼻先をくすぐるたび、私は落ち着かなくて尻尾が勝手に揺れてしまう。タクマはずるい。私もニンゲンの身体ならば良かった。 「……ん、」 「…………」  衣擦れの音に混じってタクマが鼻を鳴らす。  途端に、あの日私の下で鳴いていた姿が脳裏に蘇ったものだから、クレーマーや無能な上司の顔を思い浮かべてなんとか平静を保った。あいつらでも使い道はあったな、と妙な感心をする。  しかしそうでもしなければ、私の下半身はあらぬ反応を見せてしまうのだ。やはり私は生まれついての変質者だったのかましれない。投獄された方が良いのだろうか。 「…………」  そっと寝返りを打ち、タクマの後頭部に目をやる。薄闇のなかでも、細いうなじにはくっきりと噛み跡が見えて、私はまた複雑な気分になった。  タクマを連れ帰ってきたとき、彼の身体には森を彷徨ったときに付いたであろう傷がいくつかあった。それらはもう治って跡形もないのに、このうなじの傷だけが消えない。傷としては治っているのに、何かの証のように刻み込まれたままだ。  まさか、全ての原因はこれなのだろうか。うなじを噛んだ瞬間、突然タクマの香りが濃くなったことを思い出す。そして、行為の最中にたまらなくその傷が愛おしくなったことも。  いやしかし、うなじを噛んだくらいで、なぜ。 「ぅー、」 「!」  考えを巡らせていると、タクマが身じろぎをしてこちらを向いた。薄く開いた目と視線が合って、私の心臓はやけに大きく動く。  タクマはぼんやりと私を見つめた後、安心し切った様子でへにゃりと笑い、そしてまたすぐ目を閉じ寝息を立て始めた。 「…………」  私は不整脈を起こした。敷布の下で意味もなく両手の指を組みながら、激しい動悸をやり過ごす。  顔が熱くてどうしようもなかった。タクマが悪い。あんな、全てをあずけるような無防備な笑い方をするから。  その日も私は、朝方まで一睡もできなかった。

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