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第五話 下手な言い訳よりは②

「……それでだな、君が真面目なのはよく分かってる。分かってるが、突然職場を放棄するというのは」 「休暇申請は出しました」 「……まあ、確かにそうだが、しかしいきなりというのは」 「体調不良による早退は内規で認められているはずです」  勤務中だというのに、私の上司は先日の早退についていまだにネチネチと説教を垂れてくる。上司は狐の獣人だ。獣種で差別するわけではないが、狐の種族は往々にしてねちっこい。  先日クレーマー対応をさせたのがそんなに気に食わないのか。小さい男だ。  口のうまい後輩の早退はすぐ認めるくせに、今まで黙々と従ってきた私が反旗を翻したことを腹に据えかねているのだろう。  くだらない。私はなぜこんな男の言うことを聞いていたのだろうか。 「オズくん、つまりだね」 「次の方こちらどうぞー」  上司の話は日が落ちるまで続きそうだったので、私は来客の応対を理由にその場を離れた。  最近分かったことがある。私は自分が模範となることで周りを変えようとしていた。  しかしそんなことは絶対に無理なのだ。私が仕事を引き受ければその分、周りの奴らは楽をしようとする。  適度な仕事具合。これに限る。手は抜かず、しかし抱え込みすぎず。変わるべきは私だったのだ。  その変化に気付いたのか、周りも徐々に私に気を違うようになってきた。悪く言えば腫れ物扱いされているわけだが。  なんにせよ、自分のペースで仕事をするなんて簡単なことだった。自分は自分、ときっぱり割り切れば良いだけの話なのだから。  いつも通り、窓口には次々と街の住民がやって来る。  淡々と要望を捌いていると、後から訪れる住民たちの衣服が幾分か濡れていることに気付いた。  どうやら外は雨が降り始めたらしい。  役場のなかにいると外の音も遮断されているので分からないが、住民たちの濡れ具合を見るに雨足はなかなか強そうだった。  参ったな、今日は傘を持ってきていない。  そう考えていたとき。 「オズ!」  ここにいるべきではない姿を認めて、私は固まった。雨衣を着たタクマが、窓口に向かってぶんぶんと手を振っている。  なぜ、こんなところに。  もちろんフードは被って耳は隠れているが、以前街へ来たときにはあまり気分が良くなさそうだったのに。  混乱していると、住民たちや職員の視線がタクマに注がれているのに気付き、背筋が凍った。  タクマの甘い香り。  それが、他の獣人にも作用してしまったら。 「すみません。腹が痛いので帰ります」 「えっ!?また!?」  背後で様子を窺っていた上司に窓口を預けると、私は急いでタクマのもとへ向かった。  私の姿を見てへらへらと笑う能天気さに腹が立った。私とあんなことになったのに、危機管理という言葉を知らないのか。  ニンゲンという珍しい生き物だとバレたらどうするつもりだ。もし捕まって研究所のようなところへ連れて行かれでもしたら。  ——そんなことになったら、私は。  そんな私の胸中など知らず、タクマはいつも通りの屈託のない笑顔を見せた。 「オズ、ごめんな。仕事中なのに。でも」 「どうして来たんだ」 「え?」  ぐいぐいとタクマの背を押して役場から出たところで、私は声を潜めつつ詰め寄った。 「君は妙な香りをさせてるんだ。他の獣人に気付かれたらどうする」 「妙な、香りって……、」 「そうだろう。私だっておかしくなったんだ。こんな獣人だらけのところへ来たら危ないだろう」  もし、君が襲われでもしたら。  そう続けようとしたが、タクマの表情がみるみる険しくなっていくのを見て、私は自分の失言に気が付いた。  ——しまった。今の言い方では、まるで。 「……変な匂いで悪かったな」 「ち、違うんだ、タクマ」 「そうだよな。俺が来て周りのお仲間がおかしくなるところなんて見たくないもんな」  早口でそう吐き捨てると、タクマは「これ」と言いながら私に傘を押し付けてきた。  雨風が強くて酷い天気だ。タクマの前髪や雨衣だって、しとどに濡れている。このなかを、タクマはわざわざ来てくれたのだ。  私に傘を届けるために。 「タクマ」 「仕事戻れば」  タクマは私の目も見ずに小さく言うと、そのまま雨の中へ歩き出してしまった。  慌てて傘を開き後を追うが、タクマは足元を見て歩みを進めるだけで、私の方をちらりとも見てくれなかった。  容赦なく雨粒が傘を叩く。  タクマに傘を差し掛けても逃げられてしまったけれど、私はできるだけ近くに寄り添い歩いた。至極話し辛い空気と環境のなか、私は必死でタクマに話しかける。 「タクマ、すまない。さっきのは、タクマが悪いって意味じゃないんだ」 「…………」 「君が他の奴らにちょっかいを出されるんじゃないかと思って、心配だったんだ。強い言い方をして悪かった」  すまない、悪かった、と言い募っていると、タクマは突然ぴたりと歩みを止めた。  恐るおそる覗き込むと、唇を噛んで涙を堪える顔があって、心臓に引き絞られるような痛みが走る。 「……迷惑だって、俺だって、分かってるけど、」 「タクマ」 「す、少しくらい、役に立ちたいって、思うじゃん……!」  堪えきれずタクマの瞳から零れた涙に、私は人生で一番激しく動揺した。    泣かせてしまった。完全に、何の疑いもなく私のせいだった。  どうすれば良いのか分からなくて、とりあえず重ねて「すまない」を繰り返す。タクマは箍が外れてしまったようで、声を詰まらせながらとつとつと言葉を紡いだ。 「俺だって、街のことよく分かんないし、皆頭から耳生やしてるし、別に行きたいわけじゃなかったけど……っ」 「……すまない」 「何なんだよ……っ、仕切り直しって言っただろ、それなのに、お前、俺のこと、避けるし……っ!」 「それもすまない」 「すまないじゃない!」  力任せに腹を殴られた。不意打ちだったからそこそこ痛い。タクマの腕が細くてよかった。痛いけれど、それよりもタクマの涙を止めたいと思った。  なんとかなだめすかして家に帰るころには、タクマも少し落ち着いたようだったが、まだ目を赤くしてぐすぐすと鼻を鳴らしていた。  落ち着かない。タクマが泣いていると、ものすごく落ち着かない。ちりちりと自分の髪が浮き立つ感覚がした。 「……すまなかった、タクマ」 「……すまないはもういい」 「…………」  そう言われてしまうと返す言葉がない。  しかしその場から離れるのも気が引けて、距離を置いて部屋の隅でうろついていると、タクマが鼻声のまま私を呼んだ。 「……ねぇ、オズ」 「どうした」 「虎の姿になってよ」 「え」  人生で二番目くらいに動揺した。  突然の要望に声も出せず固まっていると、タクマは仏頂面のまま続けた。 「……俺、結構傷ついたから、癒してくれてもいいと思う」 「いや、しかし……」 「アニマルセラピーだよ。反省してるなら協力して」  あにまるせらぴいとは。  さすがに聞ける雰囲気ではなかった。しかし断れる空気でもない。私は雰囲気に弱い男だった。 「いいでしょ。虎の獣人なんだから虎になるくらい」 「…………」  こんなことなら、初めからタクマに「獣の姿になる獣人は変態野郎なのだ」と打ち明けるべきだった。  後悔先に立たずとはまさにこのことである。  私は折れるしかなかった。  まさか、こんな形でまたタクマに獣の姿を晒すことになろうとは。 「け、決して、こちらを見てはいけないぞ」 「何それ、鶴の恩返し的な?」  どこから鶴が出てきたのか、とは思ったが、タクマの表情が和らいだので敢えて追及はしなかった。  タクマの目の届かないところまで移動し、服を脱ぎ、集中する。身体中の細胞が跳ね回り、自分が自分から離れていく感覚に酔う。  自分はただの獣に過ぎない、そう感じる一瞬だった。

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